ブラック校則、ブラック教師の学校が減るどころか増えている!!

一つの幻想に支配された教師たち、或いはペアレントに、更に深刻なのは生徒自身が、オカルト的な非合理主義的イデオロギーを身体化してしまっている恐怖である。
規則は、その集団が実存的自由を得るために合意するもので、一方的に決められた非合理としか思えない決まりを、心を傷つけたり、命を失ってまで守るものではない。
合理/非合理の検討もなく、規則は守るべきものという信念は、一種の奴隷的飼育の在り方で、教育とは真逆のものであろう。
日常の異常さを、学校関係者も親も生徒自身も気づいた方がいい。
それは、社会へ出たときに、主体性のない、民主主義を担えないロボット人間になってしまうからだ。

校門圧死事件から30年――理不尽すぎる「ブラック校則」の闇が深くなっている、著者 内田良

2017年10月に大阪府内の公立高校に通う女子生徒が、生まれつきの茶色い髪を黒く染めるよう学校から強要されたとして、大阪府に対し損害賠償を求める訴えを起こした。この勇気ある訴えが火付け役となって、理不尽な校則に対する関心が一気に高まった。私自身もその動きに触発されて、8月に荻上チキ氏との共編著『ブラック校則』を著したばかりである。

 つい先日、お隣の国、韓国のソウル市では、中高生の髪型や髪色を規制する校則について、市教育庁が来年秋季からの撤廃を各校に指示した(AFP、THE KOREA TIMES)。校則をゆるめると学校の秩序が乱れるという主張も根強いなか、私たちは校則の存在をどう受け止めるべきなのか


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遅刻取り締まりで生徒が死亡
 1980年代以降、校則は管理教育を象徴するものとして、その過剰で細かい規定事項が厳しい批判の対象とされてきた。とりわけ、神戸市内の高校で起きた女子生徒の校門圧死事件は、子どもを徹底して管理することの是非を、世に問うこととなった。


 1990年7月のこと、登校時の遅刻取り締まりのために、校門付近で教師3名が指導をおこなっていた。「○秒前!」とハンドマイクでカウントダウンしながら、午前8時30分のチャイムとともに、1人の教師が鉄製の門扉をスライドさせて閉めようとした。そこに、女子生徒1人が駆け込んでいった。教師は気づかずに門扉を押していったため、女子生徒は頭部を挟まれ、死亡する結果となった。

「教師として当然の義務のように思い込まされてきた」
 この事案において、門扉を直接に閉めた男性教諭は、刑事裁判において禁錮1年(執行猶予3年)の判決を受けた。事件から3年後の1993年に発表された手記で男性教諭は、当時の自分が置かれた状況を次のように記している。

「私ははっきり言って校門事件当時は、校門を閉鎖して遅刻生徒を取り締まることは正しいと信じて疑わなかった。しかしこうして尊い生徒の生命が失われてみると、他に方法はなかったのだろうかと考えさせられることがある。(略)当時そんなことを考える余裕は私にはなかった。気がつくとそういうシステムの中に嵌め込まれ、そうすることが教師として当然の義務のように思い込まされてきた。(略)私は決められたことを忠実に実行しただけであった。」――『校門の時計だけが知っている』(草思社、1993年、240-241頁)


 門扉がスライドして閉められる。間に合わなければグラウンド2周のペナルティが科せられる。門扉をくぐり抜けようと、女子生徒は飛び込んでいった。

 異様な光景ではあるけれども、男性教諭の手記によれば、当時はそうした指導が当たり前でもはやその異常性に気づくことができなかったという。

「校則の異常性は減ってきた」のウソ
 1990年という30年近く前の古い事案を取り上げたのは、それが死亡という重大な結果に至ったからだけではない。じつは、「校則の異常性というのは、今日ではずいぶんと減ってきた」と、私を含め多くの教育関係者が思ってきたからだ。

 ところが冒頭で述べたとおり、2017年に入ってから、黒髪の強要が話題となった。また朝日新聞社の調査からも、東京都立高校の約6割で、髪の毛が茶色だったり縮れていたりする生徒に対して、それが生まれつきのものであることを示す「地毛証明書」を提出させていることが明らかとなった。

「下着の色が決められている」今のこどもたち
 同じく朝日新聞社が、日本高校野球連盟と共同で実施した調査によると、連盟に加盟している高校のうち髪型を「丸刈り」としているのは、2003年が46.4%であったのに対し、2018年には76.8%にまで増加している【図1】。



 また荻上チキ氏らが2018年に実施したウェブ調査では、「下着の色が決められている」「整髪料を使ってはいけない」など多くの質問項目で、若年世代のほうが経験ありとの回答を示していた(詳細な調査結果は『ブラック校則』に収められている)。

 このように合理性を欠くような校則は、けっして消滅していない。それどころか、むしろ強化あるいは拡散しているようである。校則の問題は、実態としても議論としても、もう下火になっていると思っていただけに、私はかなり驚かされたのであった。

“理不尽でも”校則を守るのは当然?
 興味深いデータを一つ紹介したい。


 福岡県の高校2年生を対象に、2001年、2007年、2013年と3時点にわたって実施された調査の結果である。「学校で集団生活をおくる以上、校則を守るのは当然のことだ」という質問への回答は、3時点で大きく変化している【図2】。


【高校生の規則にはしたがうべきかアンケート】朝日新聞調査

2013年  そう思う35.2% どちらかというとそう思う52.4% 計87.4%

2007年   同上22.6%        同上52.6%  計75.2%

2003年   同上16.8%        同上55.1% 計71.9%


 全体(男子・女子)の傾向として、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」という肯定的な傾向が、2013年では87.9%に達している。大多数の生徒が校則を守ることは当然と考えている。しかもそれは2001年の68.3%から、約20%もの大幅な増加である。さらには「どちらかといえばそう思う」はほとんど変化がなく、「そう思う」というより積極的な回答が増えている。

 この結果を踏まえて今日の中高生における校則への感受性を想像すると、複雑な思いになる。なぜなら、非合理または理不尽な校則が今日も通用している一方で、生徒らはそれらの校則を守るべきと考えている可能性が見えてくるからである。

今こそ「ブラック校則問題」を考えたい
 校則をはじめルールを守ることは、もちろん重要だ。ただそれは、無批判に従えばよいということではない。校門圧死事件がそうであるように、当のルールが当たり前のものになると、もはやその善悪が問われなくなってしまう。

 私が尊敬する年輩の弁護士に、「校則を守るのは当然のことだ」という高校生の割合が増えているという話をした。するとその弁護士はこう答えた――「それは,マズイねぇ」。

 一つひとつのルールについて、つねに批判的に検討しながら受容していくことこそが、何よりも大事なことである。

http://bunshun.jp/articles/-/9230