添田馨著『クリティカル=ライン』は現代詩批評の高峰だ!

添田馨著『クリティカル=ライン』をやっと落手。
とても美しい装丁で好感がもてる。

目次をみるだけで、書の密度がずっしりと伝わる。
今は流行りの「すごーい」が思わず口をつく。

目につくところをさっと読んでみるが、難しい。
まさに詩人なんだろう、ことばの魔術師というべきか。
わたしのような社会科学あがりの者にすると、ことばの意味を消化していくのにとても骨が折れるが、ひとつの表象を鮮明にして、胸に深く刻むとはこういうことなのだろうなと改めて魅了される。
いや、こんな結論めいたことを言えるほどまだ読みこなしていないから、ことばのシャワーに圧倒されているといったほうが的確だろう。

吉本隆明原発論は、とても頷けるものだった。
ほとんど同意できるものだ。

吉本の異論を正確に意味を咀嚼されておりながら、しかしどこかで、あまりに原理的すぎて、反原発の庶民感覚、デモの人々に寄り添っていないのではないかと疑問も吐露している。

この辺りも優しい人なのだなと感心した。
おそらくこんなナイーブな感受性をもった添田さんは、社会運動や政治運動で、ドロまみれになって、憎悪と不信の訣別や暴力の磁場を経験したことはないのだろうとも思えた。
外れていたら申し訳ないので訂正する。

わたしも震災直後に少し長めの吉本原発論を書き留めた。
瀬尾育夫の言語論に幻惑されて、書きはしたが自分で納得できなくて某詩誌掲載後、今はお蔵入りにしている。
添田さんの説明で蒙を啓かれた思いだ。わたしは、ベンヤミンやハイディガーの言語論にうとく、そちらに引っ張られすぎてて混乱した。吉本言語論に素直に沿っていった方がよかったことを教えられた。

その後も吉本の生涯の核問題を、わたしのように引っ張り出して実証的に論じたものはないように思う。

なかでも、敗戦直後に書いた『詩と科学の問題』を押さえた論考は、瀬尾と築山登美夫ぐらいだったと記憶する。

この短いコメント『詩と科学』が重要なのは、吉本の原点であり、この核を含む野放図な科学に人間が逆襲されるだろうという直感は、吉本の原点を印したものだからだ。決して近代科学主義者ではない。

また、核のふたつの『異論』より、ストレートに語られているのは『情況への発言』で、本音でストレートだ。
これらを読めば吉本が原発推進論者でもなく、原発と彼なりの「今のところ」安全のようだから、それなりに付き合うしかないという微妙なニュアンスを含みつつ、
・安全への極限の対策がない限り原発はダメ
・推進/廃棄ともにイデオロギーである限りではどちらにもくみさない。(事故の4〜5年前のこと)
・その判断は、四つか五つの次元の違うレイヤーを総合化する必要がある。(レイヤーを列挙している)
・今の原発は事故を起こす場合もある。その時は住民救済はこのようにすべきだ(補償問題などいくつか挙げている)。

これらを押さえると、添田さんが吉本は「原理的」にすぎるという言い方も解り、また「状況論的」には納得もできるのではないか。決して「原理的」だけでもないのだ。

吉本は、事故直後の感想として、これだけ近い場所なのに、なぜか情報というか全身で感受できるようなものがなく、遠い処の出来事であるような感覚に戸惑ったといっているが、これは
理解できる。
関西にいると、特にそれは感じた。
わたしたちは、それ以前の阪神大震災の方がリアリティーがあり、意地悪くいえば、あの時東京の連中はこれほど震災を親身に語ったのかと訊きたい。

原発事故が加わったことがより深刻なものにしたことは解る。
しかし、ともに地方と都市の問題を抱えて、都市は繁栄してきた。原発電力もしかりである。

長くなるので結論をいうとこういうことだ。
吉本の反原発デモが一種のファッショ的意味をおびるよという意味は、
現象的には、反原発派が地元推進派を叩き、正義はわれらにあるというが、
では地元の復興を早くするための補助金が欲しいという対立を解消できるのか。

原発誘致のときも、都会と同じような豊かな生活を望んだ結果だっただろう。それをわたしたちは黙認してきた。

震災地の地方の人々が、相変わらず都会と同じように豊に暮らしたいという望みを、「倫理的」に「あきらめなはれ」といえるかどうか。
もちろんでは再び原発推進をやろうということではない。
ではないが、反原発派の不安感情と「倫理」で、被災地や地方は都会より貧しくあれ、「正義」のために「悪」を止めろと断定してしまっていいのか。

すなわち反原発派の思想のなかに、こうした地方・被災地の人々をも包摂する「原理的」思想が組み込まれているのか。

わたしたちが、「悪」だと決めつけたものへの「正義」の対抗的運動だけで解決するほど、素朴で単純な世界に生きてはいないのではないか。

これは原発の抱える多岐にわたる複雑な問題ばかりだが、根底にある原発反対は、推進論を原理的に包摂できるか、という思想の問題である。

 

情況論でしか思考しない多くの反原発派に、解り易くいえば、「倫理」を政治過程として落とし込むなら、原発は止める、だけど原発現地には、向う何年かの補助金に代わる廃止支援金を配慮せよ、その間に代替え産業を国家を挙げて育成しよう、というスローガンがなぜ出てこないのかという意味だ。こういうことを言うのはわたしぐらいのもので、即原発廃止派は自分達の意見に同調しなければ単純に推進派のレッテルを貼って叩くだけである。

 

「倫理」の善悪正義論で混乱しているのは、課題山積みのなかで、現地住民の分断を結果させているだけである。

都市と地方、被災者同士の分断、被曝者同士の分断を生み出している。

わたしたちは、誰もが本当なら原発は止めたい、できればなくてもいい、と思いながらも被曝現地が推進に向かうことを、「だめな人達」ど叩くだけでいいのか。


わたしが、惑いながらもそんな風に考えている。『クリティカル=ライン』は、おそらく今の詩人の最高峰なのだろうことは、門外漢のわたしにも直感できる。

多くのひとの精読により、多くの論議を期待し、わたしもその環に加わりたいと思った。