映画ロブ・ライナー監督『記者たち』鑑賞、ジャーナリズムは「愛国心」に敗北するのか?!

映画ロブ・ライナー監督『記者たち』鑑賞。

映画自体の作りはいかにもハリウッド調で、演出はステロタテプだともいえる。
9.11テロの愛国旋風が吹き荒れるなか、子ブッシュ大統領とペンタゴンイラクフセイン攻撃を画策。
着々と政府の戦争計画は、議会多数派と国際世論の保証をとりつけてに進む。
理由は、「大量破壊兵器を持っている」、それゆえフセインを倒せという理由であった。

このプロセスの新聞配信社ナイト・リッターの記者たちの奮闘と、政府のでっち上げ戦争計画を暴いて奮闘する記録となっている。
途中から、ベトナム戦争従軍記者で政府職員のオールドジャーナリストが、政府を辞めて取材陣に加わるのだが、彼等にはない政府高官への取材ルートをもって若い記者らへの側面支援と手柄を誘導する。なかなか渋い演技でいい。
映像は記者たちの再現映像と実際に放映された映像を織り交ぜながら、小気味よいテンポデ進む。

記者たちの家庭ドラマに世界政治の影響を具現化したり、若い記者の恋愛ドラマにアメリカ人の民主主義とファシズムの個人間葛藤を織り込んだり、愛国心に誘惑された黒人少年の兵隊志願に、ベトナム戦争で闘った父とその苦しみを耐え抜いて青年を育てた母親など、キーとなる現代アメリカの基盤となる矛盾をベースに見え隠れさせる手法は、無駄のない洗練された演出だ。
それゆえに手慣れたアメリカ映画らしさで、映画としてはステロタイプだともいえなくはない。

映画は、先の黒人青年が、結局イラクで砲撃を受けて脊髄損傷をしてしまう。車椅子でベトナム戦争の戦死兵埋葬墓地で祈り、同時に謀略を暴いた記者たち(ベトナム戦争に従軍した元兵士のオールドジャーナリストも含まれている)が、同じフレームに映し出されて映画は終る。

このベトナム戦争にリンクするキーマンやファクトが補助線となるのは、もちろん「トンキン湾事件」があるからである。
1964年のその時も、アメリカはトンキン湾北ベトナムの二回目攻撃があったとして、「自由と愛国心」を理由に全面的に戦争状態に入り、若者を大量に派兵した。
多くの若者は無駄死にした。

再びアメリカは謀略を自ら仕掛けてイラク戦争を世界中の反対(日本だけが国連決議のないまま支持)のなかで開始した。

映画の冒頭で車椅子の黒人青年は、議会での証言台でこう述べる、
「戦争をなぜしたのですか」。

最後まで、政府の謀略を疑い、戦争の懸念をもとに取材したナイト・リッター社は、配信会社だ。
業界にいたわたしでも知らなかったのだから、新聞業界では小企業だろう。
ここのデスクが、自分のところの記事を配信先新聞主が使わないことに業を煮やしてニューヨークタイムズに怒鳴り込む。
ニューヨークタイムズに方向が違うといなされて、デスクは「お前ら必ず読者に謝罪記事を書くことになるぞ」と捨て台詞を吐いて引き下がる。
この場面を視て、この自信-いやもう信念だろう、よほど強固のソースを持っていたともみえないのだが迫力に圧倒された。
これには、ベトナム戦争に従軍したデスクの疵と歴史的誤謬への撞着を感じさせる。

72年このでっち上げが判明すると、全新聞がこけた。

ナイト・リッター社だけが正確な情報を発信できた。
ニューヨークタイムズは、謝罪記事を書いた。
トンキン湾事件のでっち上げは、二―ヨークタイムズがあばいたが、今回は敗北した。アメリカの全新聞が敗北した。

感心したのは、日本の新聞など謝罪記事は書かないだろう、これもアメリカのジャーリズムの深さであろうか。

トンキン湾事件イラク攻撃と、戦後の大規模戦争は、両方ともアメリカの謀略で始まった。
日本は、ともにアメリカを支持して、準戦争状態に突入した。

戦後憲法9条で平和が守られたという一国平和主義者たちは、この映画を観て欲しい。
いやー、またしても日本人が戦死していないのだから良かった良かったというのだろうが⋯。
9条を呪文のように唱える信仰の時代を終わらせて、世界の平和を考えてみるべき時期にきているのではないか。
9条を世界のなかに生かす政治を。

 

中東攻撃以降、安保法制を解釈改憲で制定し、よりスムースにアメリカの戦争に一体化を可能にしたのは安倍内閣である。
湾岸戦争イラク戦争も、「深く反省」したのは戦争屋たちの方である。
準戦争をした日本を見ないふりしてきたのは日本の野党と国民であることを自覚するべきだろう。