ゼレンスキーは悪人か?ー日本的左右平和論者の空虚さ。

平和論者の論理はとても日本的で面白い。
ウクライナ国民が死んでいくのは、ゼレンスキー大統領が悪い。
ロシアに降伏してでも早く停戦すれば、戦死者はなくなり平和になる。
国民の基本的人権を守らないゼレンスキーも悪い、英雄視すべきではない。
例えロシアの征服で支配下に置かれても、政治家は理想を100%全うできることなどないのだから仕方ない、時期をみて改善すればよい。
以上のようなことを言っている人たちが、
ゼレンスキーの国会演説を与野党が一致して容認し、日本が国家としてウクライナ支援し、ロシアの敵国となる表明(ウクライナと共にある)国会決議をしたように危険をまた犯すことは、問題だと述べる。
ここがとても日本の平和論の特徴がよく出ていて面白い、また同時にいら立つところだ。
このゼレンスキーの国会演説は、与党主導で(立民党は当初慎重論)親米右派が積極的であり、いつも通り米国から「ショウ ザ フラッグ」などと囁かれていそいそと穴舐めした結果なのが透けて見えるのだが、その辺りは気にならないらしい。
つまり、ロシアに一方的に国際法違反(だと国連認定決議)の侵略があっても、軍事力で優位なので早く降伏した方が人命が失われない、と。すなわちロシアの属国になった状態が現在の日本の苦難と同等かそれ以上のものをひき起こすことは無視されている。
すなわち宗主国の言いなりになって、ロシアと敵対し、中国と緊張を高め、日本国民の命と人権を米国のために投げ出さなければならなくなっている現在の日本国に等しい結果が待っている、ということは無視される。
日本は米国の極東戦略の一環にあって、ロシア、中国の緩衝国家である。そのことで、ずいぶん日本の平和憲法はあって無きもののようになってきたことは無視される。
緩衝国家の属国であるがゆえに、ゼレンスキーの国会決議がれいわ新選組以外の与野党全体で受け入れられたのであって、隣の大国との緊張を緩和させる中立的外交をできなくしているのである。
その根本原因をほとんど見えないのか見ないようにしている現状保守の方が、結局事なかれで楽なのか、ーー。
日本の緩衝国家としての属国の立場に憤りがなければ、しょせんゼレンスキーもウクライナ国民の抵抗戦も理解できないだろう。
だからといって私はウクライナ国民に全滅するまで戦えともいうつもりもないし、いったとしても責任はとれない。
国家総動員法ウクライナ国民は全員悪の権力者ゼレンスキーに強要され、いやいやながら戦っているのだろうか。
いやいやながらにしては善戦しているように見えるし、逃亡兵がいっぱい出ているとも聞かないし、むしろ戦意が低いのはロシアのように見える。それも西側ジャーナリズムのフェイクなのだろうか。
つまり、民主主義の視点から早く征服された方が犠牲が少なくて済むという主張には、政権担当為政者はとにかく悪人だとする根拠のない前提だけで、
ウクライナの国民の意思がゼレンスキーと近似的にあるのかないのか、またゼレンスキーへの支持と役割容認をどの程度されているのかの検証がないまま、ウクライナの平和を論じているのが、とても気になるところだ。
民主主義者として語るなら、この最も大事な点を抜きにしており、それは敗戦と属国を経験するなかで、国家・政権と国民が乖離し、長らく不幸な不一致を内面化した日本人的良心の負の面かもしれない。

戦争の悪と国家の悪ーウクライナVSロシア戦争論評の混乱

ウクライナVSロシアの戦争論評に混乱が見られる。
管見の限り、戦争の悪と国家の悪が、国家対国家のレベルだけでかたられているためだろう。戦争と国家の両軸で語られていないせいである。
私が問題にするのは、ウクライナもロシアも戦争をしている限りどっちもどっちもだという平和論者の論評である。
戦争をする点で両者とも間違いだと。
特にNATOの存続と東進問題を背景に踏まえて、プチーンの擁護論である。
特に訳知り顔の、リベラル派に多い。
(ゼレンスキーに国会演説をさせようというような、保守派の米国の穴舐めをいそいそとするような連中は、ここでは論外である。)
しかし、私はこの戦争は明かに、プーチンが悪いと言い続けている。
それは、事実として、殺されているのはウクライナの「庶民」であり、ロシア「庶民」ではないからである。
戦争は国家間戦争だが、国家のレベルだけで政治を語ると、これが見えない。
私たち無党派全共闘(社学同旗派も近い)が吉本隆明から学んだのは、「庶民」のレベル、即ち生活過程からすべての問題を立ててみると言う方法だったのではないか。
もしウクライナのゼレンスキーも戦争をしているから悪である、といえるとすれば、ウクライナ軍がロシア国内へ進行し、ロシア「庶民」を無差別に殺戮している場合だ。そのときはどっちもどっちだという言い方が成り立つだろう。
ゼレンスキーの問題は、総動員法で庶民をしばり戦争に駆り出していることだろう。しかしこれは国家の悪であって、今回の戦争の悪の副次的要素である。
私は九条加憲論で、国連でいう個別的自衛権が認められているなら「交戦権」規定と「良心的兵役拒否」条項を追加せよと言っている。そういうものがある限り、近代の国民国家を欲しがる民族は、志願兵もあっても仕方ないと思う。
ありていにいえば、
軍人同士が、庶民のいない無人島や平原で戦争する分には好きなようにしたらいいと思う。しかし近代戦は、国家総力戦であり「庶民」の殺害が必須の勝因となっている。
近代の平和論は、国家の悪と戦争の悪を、一旦峻別し、平和とは何かについての「現象学的還元」によって普遍的な合意を求める必要がある。
そうすれば、吉本が言うように、平和の本質=大切なものは「庶民の日常における安寧のなかに老いて死ぬ」ことにつきるのではないか。
それを阻害するものが悪であるといえるだろう。
戦争をやる奴は全て悪だという言い方は、原理的にはそういえるが、同時に何も語っていない。
どうしたら停戦に第三者の日本が尽力できるか、という展望を提示できず、戦争に巻き込まれない日本という内向きの「ナショナリズム」に回収されてしまうのがオチである。
これは憲法前文や九条の平和論からズレてしまう。世界の諸国が平和を志向してくれないと、日本国憲法はいかされないからである。その為には、平和への共時的共振が必要であろう。
「庶民」の生活過程という軸を設定しないと、戦争の実相を見逃す。
戦争一般の悪を言うと、その通りだが、政治的展望から遠ざかる。
戦争は全て悪だというレトリックは真理であっても、それはイロニーでしかないのだ。
イロニーは、対象の批判はしても展望は提示できない。それは保守の方法であっても、左派の方法ではないのである。

ウクライナ戦争ー感傷ではなくどの水準で視ていくべきか?

ウクライナはよく闘っている。男は闘うが、女は15%が軍に参画している。しかし多くは子供をつれて逃げる。
別れのシーンは、悲嘆に満ちている。
男だけ総動員法で銃をもち、女は逃げる。
安物のジェンダー論者は文句いわないのか?
女も総動員法の対象にせよと、銃を持てと。
やはり総動員法は、どうかと思う。
国家の大義があったとしても、命より重い物か?
属国にされたとしても、貧困と屈辱と忍従の日々がきたとしても、命と比較考量して、
は個人に選択は任されるべきだと思う。
銃を持たない国民が多いなら、多分その国家は価値がないのだろうし、
そうならないように、日ごろの政府の国民の包摂度合いを高めなければならなくなるだろう。
国民が恩恵を感じ、この成員であることが他の国では賄えない、あるいは愛着と誇りをもてる、そのようでなければ、いざとなれば逃げだしてもよい、という状態に置いておくことが支配者側にも国民の側にもいいのではないか。
次に思うのは、
やはりグローバル化の負の側面しか見えなかったが、ロシアの戦争で「世界市民」というべき世論が21Cには形成されるのではないか。
環境問題でも一国ではほとんど解決できないわけで、「世界市民」の論議と合意形成が不可欠だからである。
今回これほど戦争反対の声が世界的に沸き上がったことはなかったのではないか。
要因は、ロシアがソ連に逆戻りしたような、20Cを再現させてくれた点にあるように思う。
この戦争の仕方を、世界の人びとは一致して非難している。
常任理事国がすでに機能していないことでもある。
この枠組みをどう普遍的正義の実現に向けた組織に変革するか、が喫緊の課題だろう。
宗教のおまじないのようになった護憲運動ではなく、
加藤典洋のいう9条を生かすためには、国連軍創出とリンクさせるべきだという提案は、現実味を増したように思う。
内向きの日本人だけが戦争に「巻き込まれない」護符では意味がない。
大国の横暴はあったとしても、小国も文化や福祉で優位に立てる。
しかし軍事力のコントロールは、大国に勝手にさせない、あくまで国連の合意形成された組織によって、いかなる他国への軍事侵攻も認めない、というシステムしか21Cの国家暴力はなくせないのではないか。
そのために、個別国家の軍隊は国連に委託し、個別国家の交戦権は剥奪する。
これを夢物語だと思うか、志向する価値があると思うかはあなたの勝手。
ただ、9条が、もともと二次大戦の勝者5か国で戦争正義を独占し、個別国家の交戦権を剥奪するという立て付けのもとに成立したことを忘れるべきではない。だから「諸国民の公正と信義に信頼して」と前文はのべるのである。
しかしこの立て付けは米ソ冷戦の深刻化で日本国憲法成立の直前に審議委員会が停止分解してしまった。
そしてその後もっとも戦争をよくしたのが常任理事国の米ソだという現実をみると、この常任理事国の勝手を許さない「世界市民」の声が高まれば、この枠組みは変えられる可能性はあるのではないか。
実現可能性の前で沈黙するか、一歩歩みだすか、それはあなたの自由だ。
私は、ウクライナ戦争をどの水準でみていくか、感傷をこえてリアルに視たいと思う。

ウクライナ・ロシア、権力嫌悪からする両者とも悪とする反戦言説のシニシズム

再度言いますが、面倒くさいから簡単にメモします。
前2回と続けて読んでください。
 
明かにウクライナを支援したいと思っていますが、理由は内戦ではない、ロシアのクリミヤに続く正規軍の侵略であるということ。
戦争が起きたとき、悪として倫理の準拠点は、国民の被害がどちらに出るかということ。
先進国のように国家を持ちたい国の要望(近代国民国家)国民の要望を圧殺することは認めない、と考える。
プーチンを叩くためにではなくロシアの領土的野心は今後も続くと思うから。
北海道の侵略も現実的にありうること。ただしプーチン政権以外になればその杞憂はなくなる可能性もある。
プーチン個人の決断ではあるが、こういう人物が長期に政権につく土壌はロシアの後進性にあるとみるから。
ロシア革命自体が後進性ゆえの暴力革命として可能であった。
冷戦後ロシアは産業社会の構築に失敗し、ブラックマーケット化した。GDPは世界の先進国ては言えないほど低く、1人頭のGDPは70位ぐらい。韓国より低い日本が48位ぐらいだからかなり天然資源に頼らざるを得ないため、属国との相互依存を拡げるしかもたない。
つまり大国の国内矛盾を属国に転嫁する方法。
反日抗日戦やベトナム戦を私は妥当性があったとみなすのは、大国が少数民族を圧殺し、近代国家の建国を圧殺しようとしたから。
外交で解決するべきだーという原理的な主張はその通り、しかし外交に失敗するから小国が大国に反抗する。
戦争は外交の失敗によるものであるから、自己撞着となる。
1994年~1996年、ソ連崩壊、冷戦終結時点で核弾頭1240発をロシアに返還し、「非核三原則」を決議、民需産業へ舵をきる。当然市場経済としてEUに加盟を望んだ。
1994年全欧安保協力会議にて、新規加盟したウクライナに対して、米英露で「ウクライナの領土的統一と国境の不可侵を保証する」と覚書を交付している。
だとするならば、米英は露の脅しに屈することなくウクライナを支援すべきではないか。
これでは日米安保など、いくら金を出し続けてもアメリカの都合で小国はいつでも緩衝地帯として使い捨てにされる。それを認めることになる。
平和な日本で培われた「戦争論」は、どれも偏っていてリアルな戦争そのものには届いていない。
特に核保有論などお花畑の妄言だが、戦争は両国とも悪い、どっちもどっちだと、国家=悪=政権という国家論(国民論)を欠落した権力嫌悪論は、戦後民主主義アポリアで何事も言い当てられず、有効性を持たない。一種のシニシズムに陥る。
 
 
 

ウクライナの国民はどうしたいのか?国家には様々な問題を内包するが、それをもって戦争を肯定すべきではない!

ウクライナが、総動員法で男性を国外退去を禁じた点、
火だねのEU加盟をこのさなかに申請した点、
これらをもってウクライナ大統領が問題だということは「原理的」には言える。
但しそれは他人事として、特に国家=暴力装置純化論でしかないオールドレフトの言論として当然でてくるなと予見はしていた。
他国から侵略を受けた国家が、死に物狂いで死守し、自分たちの日常性を取り戻そうとするのは、おそらくナショナリスト以外でも、庶民感情として当然ではないか。
それをおかしいと言って、大統領が白旗を掲げれば死者は少なく済むし、ロシアが政治を支配することでロシアも果実を手する。
それはその道もあり得るが、
長らくソ連の抑圧を経験した結果、国民は民主主義を選択しウクライナは建国されたわけで、その努力を水に流せというのは、他人のたわごとだろう。
ウクライナ国民がどうしたいのか、それが全てであって、終戦ソ連に侵略されたことしかない程度の日本人が、とやかくいうことではないと思う。
では、ウクライナ大統領が、白旗を掲げ、EU加盟をあきらめて、ロシアに領土を明け渡しとき、人類は再び戦争の侵略性を是認し、勝ったものがちという慣例を追認し続けるというのか?
判断の基準は、ウクライナ国民がどうしたいのか、誰も国際社会は戦闘支援はしないのだから、ウクライナ人の進む方向を見守り、被害を受けている庶民が救済されること以外は軽々に他人事として放言しないことだ。
再度言うが、
大国が小国を侵略すること、これをいかなる理由があっても認めない。
ゆえに小国の国民的抵抗は許されるべきである。
戦争の悪は、庶民が被害者となる限り、一国の領土へ正規軍を入れる事は悪であり、悪のメルクマールは庶民の被害という一点である。
他国に正規軍を入れることは悪として、人類史の是認されてきた慣例をシャットアウトすることである。
<追記>
なお、国家は仮想敵と暴力性を内包している。
近代国家は、にもかかわらず、市民社会の分業と安寧、経済生活のシステム化と飢餓の克服、医療福祉の充実、こうした国民の文化の成熟は国民国家の成立に拠っていること。その評価の上で、国家を持ちたい国民もいることは認めなければ、大国の属国と抑圧に忍従せよということと変わりはないのだ。

ウクライナVSロシア、なぜプーチンが「悪」であるのかーどの視点でそう言えるのか

久々に「痛ましさ」という感情がこみ上げてくる。
ウクライナの人びとの悲痛な声と、着の身着のままの逃避映像を見ていると、改めて国家や大衆の存在様式について考えざるを得ない。
国家はそれ自体が仮想敵を内在させている。
国家はしたがってその政体によって戦争をするとかしないとか判断できない。
政権と国民と他国関係によって、さまざまな理由で戦争は勃発する。だから一概に戦争当事国同士を比較して、どちらが正義であるかという論議は極めてむつかしい。
有名なクラウゼヴィッツは「戦争は別の手段による政治の継続」だという、レーニンは「戦争は別の手段による経済の継続」だともいう。
戦後生まれの団塊世代の私は、民主主義ももたらし、一番民主的であると思っていたアメリカが、戦後もっとも戦争を行い、その端緒はいつも情報機関の工作の後に、圧倒的に勝てる国にしか攻め込まなかった事実を知っている。
私が反米帝国主義で一貫として反対運動をしたのも、その国家の矛盾を、他国に転嫁することを唾棄したからだった。
共産主義国ソ連も東欧に侵攻し、弱小国家を自らの欲望の対象とし、内在的矛盾を転嫁した。
少年時代にも、「プラハの春」などのニュースに涙したものであった。
政体に関係なく、国家は暴力によって成立し、暴力的エネルギーを潜在的に内包し、決して大国へと向かわず弱小国家へ暴力的支配を向けるのである。
現在のロシアのウクライナ侵略について、いくつかの意見にわかれているが、微妙な意見があってこれは論議しておく必要があると思った。
これとは、「ロシアも米とNatoに追い込まれたためで一部の理がある」というものだ。
或いは「相互に情報戦をするから何が本当かわからないから、ロシアだけを悪者にすべきでない」というものだ。
それはその通りで、否定はしない。
しかし、私たちが今目にしているものー現在の世界各国のマスコミの映像は、どちらが量的に多いかという問題はあっても、ウクライナ国民が逃げ惑う姿であって、ロシア国民が逃げ惑っている姿ではない。これは信用してもいいだろう。
細かい点では、情報戦が当然あって、個々の戦闘情報は疑いながら理解する必要があるだろう。
ロシア追い詰められ論もウクライナちょっかい出し論も米国金融のロシア解体論も、わたしには確認しようがないし、またありうるかもしれないとも思う。
しかし、私が戦後の中で獲得した考えは、どちらの「国家」が正義か悪か、という次元で語る事の無意味さである。
私は、国家と戦争の問題は、つまるところ誰が最も不幸になるかという点で論じるということである。
だから九条護憲が、エリートの論議で国民のものになっていないと述べてきた。
ある理念から演繹的に「愚昧な庶民」に九条の理念に目を覚ませという古典マルクス政党のようなやり方では、九条はいずれ死ぬだろうと予言しているのである。
従って、私は徹底的に庶民の視線から戦争も国家も見るように自己訓練してきたつもりだ。
それからすれば、この戦争はやはりロシアが悪い。
庶民を殺害する国家、自国国家も含めて、まして他国軍が小国家庶民を殺害する一点で、いかなる正当性もない。
権力者や政治家や学識者は、ロシア「国家」とウクライナ「国家」の次元で語るが、それは戦争における国家と大衆(庶民)の問題の本質をズラしてしまう。
ウクライナだって、男性は国家総動員法で国外退去できず、戦争を国家によって要請されてしまっている。
私たちが、確かに戦争反対の理由として、悪の国家として指弾できるとしたら、高尚な情勢論や歴史的背景でもない。
正規軍を国境を越えて他国に入れた国家であろう。
嘗て帝国日本が、アメリカに追い詰められてやむなく戦争をしたと、消極的に正当化しても、それはアジア諸国(当時の弱小国ばかり)に皇軍をいれ2000万人を戦禍で殺した。
これも理由になりはしないだろう。
もちろんロシア人のなかにも、勇気ある反戦デモの人びともいる。
日本には、核シェア論を脊髄反射的にわめく安倍晋三橋下徹もいる。
この違いは、国家へ向き合う時の、それぞれの一面であって、国家に向き合う時、どのような政体の国家に住まおうと、選択せざるを得ない。
私は今回、加藤典洋の遺言のような「国連軍構想」は次世代の平和のための条件になりうるかもしれないと、初めて現実味を感じた。
 
ven Satow
 

ロシアのウクライナ侵略ー他人の不幸は蜜の味としていないか?

他者の不幸は蜜の味、ツイッターでもどこでも、他人ごとですから自分の国際情勢の読みを自慢げに展開しています。
自分がどれほどの情報通であるか、自慢するのだが、つまるところはプーチンとバイデンのどちらが悪い奴というレベルに落ち着く。
どちらが謀略を仕掛けたか、どちらが被害者か、背景にどこが動いているか、陰謀論のたぐいである。
私たちは、少なくともベトナム戦争が米国の謀略であるトンキンワン事件を引き金にしたこと、
南米諸国の反米政権に対して、CIAの謀略工作で親米政権を樹立してきたこと、
湾岸戦争では、イラン叩きのため、イラクフセインに米国ほかヨーロッパ諸国が、大量に武器を売りつけ、結果フセインは過剰となった武器を持て余してクウェートへ侵略したこと、
その折油まみれの水鳥の写真を使って、油田破壊のイラク殲滅を世界に訴えて騙されたこと、
アフガンではロシアが侵攻し、米国がのちに占領したが、日本のように民主化などできぬまま、自由を求め米国に協力した人々をほったらかして米軍は撤退した。
こうした米国のウクライナへの同様の工作が目に余り、プーチンNato加入を憂慮した結果でやむにやまれぬ侵攻だとか、
ロシアを怒らせたせいだとか、つまるところ米国かロシアか、どちらが悪いかといった喧嘩のレベルに論点が中心化してしまっている。
大国が、謀略工作を絶えず仕掛け、身勝手であるのは今に始まったことではない。
しかし第二次大戦から私たちが得た教訓は、国連憲章日本国憲法に集約されているはずです。
自衛権の範囲だとか、先制攻撃の事例だとか、それらはチシキジンや政治家や官僚のもので、どうでもいいことなのです。
庶民は、他国が侵略してきたら、当然闘うでしょう。
パトリオティズムとしての愛国心から抵抗するでしょう。
それゆえに逆にいえば、庶民は、憲法の法律的な解釈ではなくて、自国の軍隊を現実に他国に侵略させることはいけないことだと考えるでしょう。
21Cに、私たちがどのように戦争を阻止するかは、むつかしい法律論や金融論やナショナリズムではないのです。
唯一のテーゼは、いかなる理由があろうとも自国の正規軍を他国にいれないという、現実的で単純な原理だけなのです。
その意味で、今回のロシアは即時軍を撤退させるべきでしょう。