■評論−「攝津幸彦とその時代」

 攝津幸彦の俳句を読むと、決まって翳りのないどこまでも続く透明な街路に佇される。措定される語句の重たさが、定型の韻律を抜けていく時、一句は軽妙な明るさとノスタルジーを帯びてくる。


 彼の年譜を辿るとき、同時代とはいえその青春期の経歴の近似に驚かされる。彼の年譜によって、六〇年代後半の<あの熱情のひとつの時代>を想うと、複雑な感情と含羞に包まれる。学生時代映画研究会に属しながら俳句を始めた彼と同様、わたしも学術団体に属しながら鶴見俊輔氏が名ばかりの顧問をする映画プロダクションに出入りしていた。結局金がなくて一作も撮ることはなかったのだが。攝津は大学時代から俳句という表現行為にポジションを定めていく。

わたしの手元に古びた活版の包み製本の冊子が残っている。
攝津が同人誌を発行していたように、学生時代に友人らと発行したものだ。創刊号の寄稿は、映画監督の土本典昭『「パルチザン前史」の時間について』、唐十郎の戯曲『アリババ』など当時気鋭の若手が執筆している。若者は皆映画や演劇が好きだった。学生運動任侠映画、既存の映画会社五社のカウンターとしてのATG、ヌーベルバーグの旗手大島渚の観念的な映像作品、唐十郎寺山修司のアングラ劇場、これら多くの若者達をとりこにした。恐らく攝津もどっぷりと浸っただろう。攝津の幸運は、彼の資質に導かれながら学生運動に深入りすることなく、表現者としての道を選択してしていることだ。従って社会に出ていくに当たって、年譜をみる限り大きな挫折も特別屈折も無かったようである。このことが彼の俳句のある面の明るさとして特色つけられているようにみえる。彼が青年期の自我欲求から大方の学生と変わらない表現行為を志向していたこと、また六〇年代の高度経済成長を背景にして出現したアンダーグラウンドなどの、それまでの<戦後>的文化の変容を無意識に体感していたことなどが想われる。それは戦争および戦後後的なるものを幼少期の深層に抱え込み、しかし決して戦争そのものを識っているわけではない平和を所与のものとした戦後世代そのものである。また政治社会的には、当時のベトナム反戦運動と先進国諸国の学生叛乱に軌を一にした全国全共闘運動の真っ只中で、攝津も脅迫観念的に運動の真似事をしているが、決して活動したという程ではなかったようだ。しかし攝津の俳句のどこを切っても、時代の気分が通奏低音のように響いているのがわかる。特に全共闘運動は、大学における<知>の生産性を問いつつ<戦後>を相対化する運動であった。それは攝津の句中の措辞を理解する前提である。

  

皇国(みくに)且柱時計に真昼来ぬ

  若ざくら濡れつつありぬ八紘(あめのした)

  皇軍(みいくさ)や砕けし玉をねぶる馬

  皇国(みくに)花火の夜も英霊前を向き

  軍人をくわへし姉の霞むなり

  極月透く満州の耳蒙古の目

  天つ風天つ亜細亜をアカシヤに

 

七三年(昭和四八年)攝津(二六歳)の第一句集『姉にアネモネ』所収の「幻景」・「あなめりか」からの抜粋である。「八紘」、「皇軍」、「軍人」、「満州」、「亜細亜」など<大東亜共栄圏>を想起させる語句がキーに使われているが、これらは戦中派の実体そのものの使い方とは違っている。レトリックからすれば、これら古語による措辞は、攝津が自己のアイデンティティーを手探るとき、幼少期の心象に「父の時代」を抱え込み、敗戦を<断絶>ではなく<連続>において把握しようとした意識だとみることができる。しかし戦中派の痛苦の体験を喚起するこうした言葉が、攝津においては体験的な意味の根底から切り離されているため、意識の主題に届かず、「幻景」としてイメージを拡散させている。

 「柱時計」、「さくら」、「砕けし玉」、「英霊」、「アカシヤ」といった言葉は、過酷な体験の現実感から遊離して、甘味なノスタルジーに変化させる触媒となっている。また同時に、戦地に死に逝くゆくことを「さくら散る」といい、無残な突撃戦を「玉砕」と言い換え、無機質な遺骸を英霊」といいつのってきた歴史的体験に纏わりついた重く暗い観念を無化させているようにみえる。そして音韻の重ねによって語の意味を本質のところで希薄化している。

 
   送る万歳死ぬる万歳夜も円舞曲(ワルツ)

   幾千代も散るは美し明日は三越

   南風死して御恩のみなみかぜ

 
 従って、この秀逸な三句に象徴されるノスタルジックな措辞は、<戦後>へのイロニーとして受け取ることができる。攝津自身が遠くまで来てしまったことを無意識に表出しており、俳句の外側にひとつの時代的な喩を成立させてしまっているといってもよいだろう。

すなわちこの句集発表の三年前に起きた三島由紀夫自衛隊自刃事件によって、<戦後>は終わり、未曾有の大衆社会情況が現出していたことを。攝津の新しさは、とりもなおさず<戦後>の言説空間における<語>の意味性を相対化していく方法にあったということができる。その意味で、戦後世代のトップバッターとして攝津の方法は逃れがたく全共闘的であった。

 彼はさいごまで権威ある俳人に師事もせず、学生の自立的な自己研鑽と表現活動を商業ジャーナリズムの外で志向した。そのため佳い意味で自由な書き方が保障された。いわば先行世代の権威などにすがらず、当時の全共闘運動を担ったノンセクトラジカルの、<自立>という基本コンセプトを実践していたようなものだ。攝津俳句の修辞的な新しさがあるとすれば、この出自によって担保されていたといっても過言でない。結社の職人的技術訓練を受けていたら、攝津の俳句は「うまい」俳句ではあったかもしれないが、「新しさ」は無かっただろう。結果として自然主義や客観写生の尻尾についてくるリアリズムを、また大橋愛由等氏が『攝津幸彦という<私>』で指摘されているような「境涯作品」を、遮断したところに立っている。
摂津は、七三年(昭和四八年)『俳句研究』十一月号の第一回五〇句競作で第一席に入選して世にでるが、通常の賞の多くが俳壇のボスの認知している弟子のための談合によって与えられる中では、まれにみる出自といってよい。
 
 会ったことはなかったが、攝津幸彦という友人を早々と喪したような気がする。彼は時代の舞台で短く舞ってみせたが、わたしは彼より少し長く生きて、酔生夢死の醜態を晒している。

(『辺縁へ』所収、初出『豈』43号,2006年10月発行)