(1)評言
まず、出口喜子さんの「巻頭言」。
高柳重信など現代詩のシュールレアリズムの影響下に、行が3行に分かれて書かれた句は、分かち書きまたは多行書きという。
一句中一字空けるものは、切れ字がない場合「切れ」を作るために設定する。戦後現代詩の影響により、陳腐な感じを排除するため切れ字自体を使わなくなった時期が一頃あり、それを補うため用いる俳人がいた。
頭や末尾を使って凸凹にしたりしてひとつの図形を視覚的に表現するものは、カリグラムといってこれもシュールレアリズムの流れ。文字の意味と図形形象との乱反射を生もうとするもの。
これらの方法的試行は戦後俳句の過程で盛んに行われたが、今は(わたしには)功罪あい半ば、否定的評価が勝っているか。詳述は省く。
俳句の統辞論からすると、俳句はなぜ一行で書かなくてはならないかという難しい話になる。結論的には、一句の中での言葉と言葉の組み合わせによって、一句の書かれた意味以上の意味や情趣を獲得する詩形式だという形式が優先する詩形である、ということである。
だから、自由詩のように書き手の一義的意味を重視することを嫌う。
だから俳句ほど散文の文法を無視したものはないし、許されている。
話がずれた。以上の問題は詩形式の本質論に直結するので十分論議が必要だが、一句表記で末尾を揃えようが乱れようがそれ程問題にすることではないのではないか?詩形式論として決定的な課題にはなりえないように思う。
それはこういうことではないか?
散文でも活版印刷にするときは、横書きでは右端揃えは常識。例えばこのブログも、抛っておけば右端は凸凹状態で読みにくい。気分も落ち着かない。従って、右端揃えを簡易言語でカスタマイズしている。
ワープロやPCが普及して、富士通ワープロ以外両端揃えの機能がなくて右端がほったらかしになっている時代が暫くあり、その後任意設定の機能が付加されて天地揃えも右端揃えも表記できるようになった。
活版の散文は昔から天地揃えだが、俳句も散文に倣ったのではないのだろうか?
閑のあるひとは調べてみてください。笑
それで、この天地揃えが俳句分野に自足している結果だというのは出口さんの杞憂に過ぎないように思うのですが、いかがでしょうか?
勿論わたしはどっちでもいい、佳句であれば。
(2)作品鑑賞
街の灯の記憶のなかに霞みけり 大道寺将司
何気ない句ですが、死刑囚としての長い拘留生活で昔みた街の灯もいまや霞んでいくばかりだ。この単純明瞭な句の中に彼の今が浮かび上がる。
板チョコの薄っぺららさよ愛の日よ 玉石宗夫
「愛の日よ」が問題だが、こういうちょっとした批評性を得意とするがこれもそのひとつ。突っ込めば板チョコだから「うすっぺらさ」もいらないけどね。
マラソンや海の匂いを二周せり 芝野和子
「匂いを二周」がいいです。「を」は六林男好み、時間の経過をよく捉えています。
雪吊りの役に立ちたる風もなく 河村 勲
「風もなく」という措辞は、なんともないおかしさをかもします。
確かに、と頷いてしまいます。
人の日やハンバーガーに指埋め 大城戸晴美
人の日ともなるとハンバーガーショップは賑わう。季語との吐かず離れずのハンバーガーがいい。「指埋め」は観察眼の鋭さの勝利。
ひこばゆる少年とおり風とおる 長尾房子
少年と風、少し臭いが(笑)まあいいでしよう。
それ起きよ二度寝の蛙に杭を打つ 綿原芳美
このひとらしい滑稽さ。これは成功してます。
戦知る男の黙を春疾風 喜多より子
黄塵におおかた隠れミサイル弾
一句目。戦を知っているが故に軽々しいことはいえない。イデオロギーとしての反戦も、皇国のモラルの吹聴にも加担できない。黙って本当の戦争を指し示すしかないのだ。「春疾風」は動きませんか?
二句目。近年の黄砂はひどい。衛生写真もかなわない。
冬の日の開いて閉じる五本指 佐藤富美子
なにをしているのだろう?不思議な動作だ。五本指の動きが、ある思考の逡巡をうまく表現している。佐藤さんは句がカチッと決まってきている。平均的にいいですねー。
早蕨に明日のひかり今の影 西順子
大事をなして、静謐な余生を悠々自適に生きている。人生の明暗を知り尽くした女傑の心象風景をさらっと詠っている。季語早蕨か効いています。
生青くトマト冬越す罪のごとし 石川日出子
ごとし俳句ですが、さすがベテラン、うまく納まっています。
昔日へつなぐ手あらず椿山 出口喜子
作者は闘ってきたのだ。相克と葛藤の日々。昔の仲間だったり、釜の飯を一緒に食ったりしたって、現役で今も闘っている身には、それだけで手などつなぐことは出来ないのだよ。現役でいる限り、俳人はみんなその気概が問われる。六林男師は、批判されたら批判しかえせ、放置するなと言った。
六曜集は疲れたので、書きませんが、ひとつだけ。
傑作はやはり由利真峲ちゃん。いいですねー新鮮。
急流すべり心ぞうがなくなった
「なくなった」と過剰な言い方が、ここではリアリティをもってしまう。
句のスピード感が許している。おとなには言えない、お見事。
芝野和子さんの『父を詠む』。
拙句採用ありがとうございます。
芝野さんにいつも感心するのは、作者の句意をちゃんと読み取った上で批評するところです。やはり他の分野も理解されている方だけあって、文脈を捕らえた上で正確に読む。拙句の「白鳥の眼もて父の科あるを責め」は、類句が多々あります。しかし、芝野さんは「白鳥の眼」と「父の科ある」という二点をしっかりポイントとして評価してくれています。わたしが類句を承知で超えてゆこうとしたポイントを見事に捕らえています。
白鳥の眼で責められるほど恐ろしいことはない。
本来はブログではなくて投稿すべきなのですが、書けるときに書いておかないと締め切りのタイミングがうまくとれませんので、ご容赦願います。
また『豈』掲載作品もこのブログに掲載しますので、ご覧下さい。最近のもの↓