幸福実現党などいらないだろう

幸福実現党など何の興味もなかったが、たまたまYouTubeに引っかかり、記者会見をみたが、思っていた通りイカレポンチであった。


広報のアエバとヤナイが述べ立てていることは、保守政党を助け民主党政権の危険を騒ぎたてるだけで、民主党に一人勝ちさせないため候補者選定をして、自民党を助ける調整をしている最中だということのようだ。


彼らの言う保守はどうやら自民党と一緒ということらしいのだが、その自民党が保守なのかどうなのか何の点検もしていないようだ。


少なくとも小泉政権以降の自民党は保守か?そしてその保守は「日本人」にとって保守=日本的なるものを「保ち守る」ように機能したのか?
歴史文脈的に話を原則にもどしてよくみる必要がある。


80年代から始まったサッチャー新自由主義)やレーガンレーガノミクス
は、それまでの労働党民主党の経済的沈滞を打破するために進められた。
その中身は政府の規制撤廃により大幅な自由化であり、小さな政府と強い個人主義であった。


宮台真治によれば、新自由主義は本来「小さな政府と大きな社会」であったものが、サッチャーにより「大きな社会」の根拠づけとして宗教的観念からくる性的分業による道徳的伝統主義という曲解がなされたため不人気となり、本来の労働党社会学アンソニー・ギデンズの概念「大きな社会」は後退してしまった。*1


「大きな社会」とは、社会包摂性の強い社会のことであるが、社会包摂性を維持するには経済再生において「強い個人」が要求されると飛躍させ、欧米的な意味での個人主義や自己責任論や能力主義成果主義に結び付けて市場原理主義が登場した。招来したものは「小さな政府と小さな社会」であった。


これらはひとつの「保守革命」とされた。


その後、90年代以降アメリカのそれらは金融工学とITに支えられた多様な金融デリバブティブを産み、投機マネーによって「正義」を喪失した歪(いびつ)な社会と極端な格差社会を生んだ。その最終表現がサブプライムローンであった。


バブル収拾以降それらを無反省に日本に持ち込んだのが自民党であり、その「構造改革」によって生み出されたのが極端な格差社会と「小さな社会」であった。
後は縷々説明する必要はないであろう。


問題はこの自民党小泉竹中路線は保守だったのか、という点である。
佐伯啓思は、次のように指摘している。少し長いが引用する。


保守派が「改革」や「変革」を唱える際には、その意味内容をよく問わなければらない。「保守による改革」とは、なによりも、その国の歴史的価値や精神の保持、あねいは再生に係わるものでなければならない。ある国の精神や価値の基軸から大きく逸脱したと時に、それを正すことこそが「保守」の唱える改革なのである。
 この意味でいえば、アメリカ的追従的な改革は、もっとも「保守的改革」から遠いものであろう。「構造改革」は、本来は、保守の精神とは対立するものである。市場競争や個人主義能力主義などがある種のアメリカ的価値観と合致することは言うまでもない。それはアメリカ社会の全面ではないが、ある一面を代表している。そこで、民主党の「大きな共同体」としてのアメリカ、という価値から、共和党の「個人主義能力主義」というもうひとつのアメリカ的価値へ移行することは、それ自体がきわめて、「アメリカ的現象」なのである。しかしそれはあくまで「アメリカ的」であって、決して「日本的」ではない。個人主義能力主義、自己責任などからなる「アメリカ的保守」はあくまで「アメリカ」という土壌と歴史の中で育ったものであって、それは本家本元のイギリスとヨーロッパ大陸とも異なっているというほかない。

 にもかかわらず、90年代の日本がアメリカ発の「構造改革」に没頭し、しかも「保守派」がそれを後押ししたというほとんど悪い冗談のような事態が生じたのは、ひとつは、「保守派」自体が「保守」の意味を正しく理解していなかったためであり、もうひとつは、それほどまでに戦後日本が「アメリカ的なもの」に取り込まれてしまった、ということを示すものであった。
*2


「日本的価値」ということになると、既に百家争鳴状態になるほど混乱するところまで来てしまったことは事実である。


しかしこれはいきなり国家官僚や既得権益層や御用評論家の視点で語ることを離れて、庶民目線でみればそれほど難しい問題ではない。


何よりも、小泉竹中自民党によってもたらされた今の格差社会、絆を喪失し年3万人もの自殺者を出し、ホリエモン村上世彰などが「金儲けのどこが悪い」と開き直り、企業は株主のもの、などなどが公言されたとき、庶民は眉をひそめて、言い知れぬ不快感を抱いたはずである。その不快感こそが日本人が共通に未だどこか心の底に抱いている「日本的なるもの」ではなかったのか?


いわばこうした「小さな社会」、社会包摂性の萎縮した社会を、今日本人は共通して「日本人の心」の発露として問題としているのである。そして喫緊の課題として解決したいと思っているはずだ。
そうでなければこれだけ自民党大敗が取りざたされないだろう。


自民党が本来「保守本流」として、反保守改革であった小泉竹中路線の転換を図っていたら、これほどの醜態はさらさなかったはずだ。
それをグズクズ放置した。西川善文社長ひとりの首さえ切れなかったのだ。つまり「保守本流」にもどりきれなかった。


幸福実現党のアエバが言うことだけを聴いていると、彼ら自身が保守から転落した自民党を支えようとしていながら、保守を気取っているのはマンガという他はない。
歴史的文脈が読めていないのだ。


民主党に庶民が期待しているのは、みんなが平等意識に浸れた時代への「郷愁」であり、日本人同士がいがみあわず、困ったときには助け合うしっかりしたセーフティネットをつくろうといっているにすぎない。
民主党こそが、「保守改革」を担おうとしているのである。


民主党が危険なのは、この庶民の期待がただの「郷愁」に帰する可能性が多分にあるからである。
それは幸福実現党のような「保守」を誤認し、桜井よし子のようにさんざ小泉を持ち上げておいて流れが不利となれば次の権力に擦り寄るといったエセ「保守」が、「民主党政権」の妨害者になるからである。
こういう「保守」の誤認やアクロバティックが平然とできるのは、日本の庶民の中にある「日本的なるもの」に眼を凝らすことなく、自党や自分のイデオロギー商売のために「保守」を偽装しているにすぎないからだ。

こういう偽装保守派は百害あって一利なしである。
早く退場して欲しい。

*1:宮台真治『日本の難点』「第三章幸福とはなにか」

*2:『澪標』第58号「保守主義者にとっての世界経済危機」