9月7日付けの「岬めぐり」というエントリーをたまたま読んだが、読み物としては面白いことは面白いのだが、問題としているテーマにつては「きっこ、大丈夫か」と思わずつぶやいてしまった。
http://kikko.cocolog-nifty.com/
森進一が歌ってヒットした「襟裳岬」の歌詞に意味の整合性が読み取れないと言っているわけだが、こんなことは詩を少しかじっていればすぐ理解できることだ。
まず、季節についてはきっこさんの認識が基本的に素直に読めば正しい解釈だとわかります。
晩秋ないし初冬と解釈していいでしょう。
従って、冒頭の「北の町ではもう〜悲しみを暖炉で〜燃やし始めてるらしい〜♪」以下は当然冬の日常を歌っているわけで、あくまでささやかな日常であることが重要なのです。
だから最後に問題の、「襟裳の春はなにも無い春です♪」が生きてくるわけです。
どういうことか?
詩は散文と違って、リアルな文脈を必ずしも要求しません。
文脈や時制を飛躍させて、修辞的効果を生む技法があります。
いわゆる詩的転換(喩的転換)というものです。
散文の起承転結と同じく、自由詩といってもそれなりのフォルムはあるのですよ。その詩的転換の良し悪しが詩の評価を決めます。
俳句のような定型詩だけが形をもっているわけではありません。
(今外からエントリーしているので手元に例をあげることができませんが、岡井隆、吉本隆明などの詩論をご参照ください)
従って、この最後のフレーズの前に説明的なフレーズを持ってきたときには、
北の岬の永遠の命の繰り返しに感嘆した作家の気持ちの伝わり方は弱くなってしまうと思いますね。
何も無いことによって、命の繰り返し、この偉大さをさりげなく表出できていると思います。
なお、言語でも枕詞でもそうですが、語源の発生にさかのぼれば意味が解るというのは誤解です。それはあくまで詩句の鑑賞の補助線であって、作品鑑賞はそれらと切れたところでテクストとして評価鑑賞すべきで、それが作品の多義的解釈を担保するものでしょう。
ただ誤解なきようにしていただきたいのは、「だれかがそれを芸術だと言えばそれが芸術だ」(シャッド)というようなポストモダン以降の「何でもあり」が許されるということではありません。あくまで、文学上ないし先行批評の文脈を無視したものではなく、それらを踏まえて新しい「読み」が問われるということだろうと思います。
「きっこの日記」さんにはコメント欄がなかったのでここにエントリーしておきます。
まあご本人の眼には触れないでしょうが。
【追記】
その後「きっこのBlog」2009,9,15日付に再び取り上げられています。
きっこさんに、作詞家が秋作ったものだという情報を提供したMHさんという方
からまたメールが来て、実は調べた結果春だったと訂正してきたというのである。
まあそれはそれでいいのですが、上記に述べたように秋とも受け取れますし、リアルにどっちであったかということはあまり意味のないことす。
あくまで、テクストとしてどう読めるか、が問題で、作詞家の意味するところを読み取り、かつ同時に読者がどうそれを独自に読めたか、という二重の読み取りに醍醐味があるということです。
後者だけが正しいように言われた、ポストモダンのテクスト論の誤解はもう正されなければいけないでしょう。