八ツ場ダムの地獄−T氏からの手紙

私の畏友T氏から、八ツ場ダム視察の報告が届いた。

T氏は、吉本隆明さんとの対談もある方で、自らの居住区である杉並の道路開発阻止住民運動などにもかかわっているようです。

また政治学がライフワークで、政治評論家の三上治さんとも懇意にされているようです。その彼が、公共工事問題について怒っておりまして、以下の手紙をくれました。

平成21年11月23日


八ツ場ダムの現況


11月の中旬、寒くなり始めたころ、八ツ場ダムが計画されている川原湯温泉に行って来た。
あたりはもう紅葉は終わっていて、冬支度を始めていた。
川原湯温泉駅がある吾妻線と国道とは吾妻川沿いにあって、いずれも山腹の上方に架け替え工事が進められている。わたしたちは駅から温泉のある集落までの登り道を上がっていった。途中、山腹のかなり上方(100メーターはあろうか)に移転する住民のための代替地があるのがみえた。国が用意したものだが、当初の約200戸のうち半数以上がこの地を離れていき、予定通り移転を終えたものは希望者50戸中、20戸程度にとどまり、ほとんど進んでいない。これではたして町が存立できるのだろうか。
駅で手にしたパンフレットにはもう見られなくなる川原湯温泉と紹介されていて、私たちのように見学に訪れるものもかなりいる。
温泉は源頼朝ゆかりの湯といわれるほど古くから知られたところで、若山牧水与謝野晶子などが立ち寄り、歌碑もあるくらい、おおくの文人たちも訪れている。
わたしたちが入った温泉は山木館というところで慶長年間に創業され、十三代にわたって営業されてきた歴史を持つ。風呂は小ぶりだったが、露天風呂、内湯とも源泉をひいた湯の質はよく、たっぷりと味わい楽しむことができた。目の前には欅の大木があり、そこに置かれたえさ台にはムササビがたびたびやってくるという。夜行性だから夜のことだろう。
温泉街は山腹にあるので、はじめは昔の人が川の水害を避けるためのものかと店で一杯やりながら話していたら、店の主人がそうではなくて、もともと大昔は下流でせき止められ、目の前の盆地は湖になっていたものだという。遺跡の所在から判明できるということだった。
主人はさらに、今の温泉街について温泉宿や飲食店もつぎつぎとたたんでいき、十軒はあった飲食店で今残っているのはたったの二軒だという。行きずりの私たちを相手に多くを語らなかったが、いま工事の凍結をうけてうかぬ顔をしていたのが印象的だった。
なにせ50年以上も前に計画されてこの方、遅遅と進まなかったのにはそれなりの理由もあったわけだが、膨大な国費が投入されて、工事関係者など一部のものが長年にわたって十分な潤いを得てきたのも事実なのだ。また国土交通省のOBが関連業者に相当数天下っていることがわかっている。
当初2100億だった工事費は2004年に4600億円にかさあげされ、実際には総額は8800億円に上るとの試算もある。
工事は両岸に当たる山の中腹部分で道路や鉄道の付け替えの工事や代替地の整地がおこなわれているが、ダム本体が全く手付かずのため、実際一目見てこれがダム工事の現場かと疑いたくなる状態だ。あたりはいまものどかな山里の風姿で静かに呼吸している。
また、もともとは別の支流に同規模のダム候補地があり、そこでは人家の用地買収費が少なく、より低コストで済むものだったのが、いきさつが不明のまま、あえて問題の多い現在地に決定したということだ。なにやらあやしい霧のかかった話である。
肝心の地元の村の再生はありうるのだろうか。国はダム湖の観光地としての効果を上げ来客も多めに見込んでいて、温泉も水没する現在の源泉から移転代替地に汲み上げて利用する計画を立てている。
しかし、これはどう考えても絵に書いたモチに見える。
これまでにこの川原湯温泉がひなびた温泉として古くから人々に愛されてきたのはなにより吾妻渓谷を代表とする周囲の景観がすばらしく、豊富な源泉の湯質がいいことが利点であったことを考えると、ここをかなり離れた新駅近くに移ってはたして今までどおり客が来るだろうか、疑問といわざるを得ない。おおめの見込み数はいつも行政が事業を推進するために使う手で、全国あちこちの道路や空港などであまりのその数のずさんさが露呈していて、もはや誰もそんな数字は信じてはいない。
長い歴史が育んできた温泉の価値は確実に失われる。そして、一度失われたものは二度と還ってこない。またすでにかなりの住民がこの集落を出て行っており、町は解体寸前にある。
すでに何度も行政や政治家にだまされてきた住民は何を覚悟すべきなのか。
もはや何かを誰かに期待することではないだろう。今がまだ間に合うというぎりぎりのラインにあるのだとしたら、ここははっきりと中止にして、地元住民本位の町づくりを考え直すことだと思われる。国や自治体は住民の考えに全面的に協力すべきだし、それがせめてもの行政の責任の取り方だろう。
なにより50数年前のダム建設のもともとの治水、利水の理由がすでに失われてしまっている以上、ダムを続行して後世にまで禍根を残すことはない。
町がこれまでにうけてきた数々の傷をいやし、見事に再生すること。そのことによって人々の絆が深まり、この地が日本における公共事業転回の画期的な歴史の一ページとなることを自らの誇りとすることができればと念じるばかりだ。
行くも地獄かえるも地獄 いずれこの世は地獄を通してこそ見えてくるものもある