中国習副主席が、宮内庁一ヶ月前予約内規を無視して天皇に会見する決定に対して、宮内庁長官が官邸のごり押しを内規無視だと批判した。
一方小沢幹事長は、この長官発言に激怒し、役人の内規で政治的判断を批判するのはけしからんと述べて、自分の関与を否定した。
さらに問題をややこしくしたのは、この特例が天皇の政治利用だと長官が批判したことである。
これをめぐって、新聞各紙は、朝刊で一斉に小沢幹事長の記者会見での発言をとらえて、一面トップで報じた。
サンケイと読売は激しく小沢発言を非難して、天皇の政治利用だと断定していた。
そして読売は憲法学者のコメントで、小沢が国事行為は内閣の助言によるとしているのだから問題はない、という認識は憲法解釈の間違いであると断じていた。
国事行為ではなく、それに準ずる「公的行為」だというのだ。
思わず笑ってしまった。
憲法学者が理屈としてどう整理するのかは飽くまで解釈学の範囲のことで、これが政治利用かどうかといった本質的問題に届くことはない。
また識者といわれるひとたちは、小沢発言否定派も肯定派も含めて憲法解釈の範囲で、すなわち形式論の中で問題にして判断しているにすぎない。
憲法は次のように規定している。
第3条 天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。
第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
2.国会を召集すること。
3.衆議院を解散すること。
4.国会議員の総選挙の施行を公示すること。
5.国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
6.大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
7.栄典を授与すること。
8.批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
確かに7条からすれば、憲法学者が指摘するとおり、小沢は国事行為と「公的行為」を混同しているといえる。ただ、3条を前提にしている限り、小沢の言うことが決定的な問題理解の過ちになるとはいえない。
この「公的行為」とは多くが外国要人との会見と接待である。
ではなぜ天皇が会見するのか?
そもそも法的根拠はなんなのだ?あるのかないのか?
要するに、象徴だろうがなんだろうが、言葉の概念定義は別にして、ただ統治権としての権力行使をしない、それは内閣が行使するのだが、天皇は内閣の助言に基づき具体的に要請された政治的効果と結果を要請されているというこでである。
だから、憲法規定の国事行為を外れて、慣例的な国事行為に準ずる「公的行為」などという曖昧な話になるのである。
そもそも、外国の要人との会談を行う時点で、天皇は元首として位置づけられているわけで、政治のど真ん中に立たされているのである。
この憲法に規定のない「公的行為」は根拠のないままなぜ亡霊のように存在しているのか?
亡霊である淵源は、恐らくこういうことだろうと推測できる。
敗戦後、明治憲法から現行憲法に切り替わった。そこには、明治憲法にあった天皇の元首としての規定がなくなり、象徴という曖昧な規定になった。
吉田茂は、天皇の実質的元首としての振る舞いが可能となるような装置をしつらえた。それが外国大使の着任の折には、天皇に拝謁して挨拶をするというもので、これを慣例とするよう独断で挿入した。
諸外国からすれば、これは紛れも無い天皇が元首である、という認識を伴う行為である。これが内閣総理大臣でも、衆議院議長でもなく、天皇なのであるから当然である。
外国要人の会見と接待は、この元首としての振る舞いの延長にあるとみていいだろう。
従って、いまさら政治利用もクソもないのである。
そもそも天皇はその存在自体が政治的存在だといってもいい。
そうでないというなら、即時天皇制の撤廃をすればいい。それができないということは、逆説的に日本の政治の真中にしっかりと根を張っているということの証左だろう。
こうした虚妄に囚われている宮内庁長官の発言は、いわば戦後政治の戯画といえる。それは多くの政治家も学者も似たり寄ったりであり、特にマスメディアの誤認は影響が大きいだけに許しがたい。
この件では小沢幹事長の怒りに加担する。
だが中国訪問の折、コキントウ主席との議員団のツーショット写真を嬉しそうにとっている風景は、あまりいい趣味だとは思えなかった。