石原都知事vs福島瑞穂大臣−差別発言の不毛

書くことが多々あるのだが、眠いので石原慎太郎の差別発言に対する、
わが保守論客山崎行太郎氏のブログを紹介させていただく。

いつもながら、右や左といった表層を越えて山崎氏の烔眼が光る。

石原よ、まず自分の家系を調査せよ。

石原慎太郎が、「ネット情報」を根拠に、民主党中心に連立政権を組んでいるある党の党首や幹部の一部に、両親か先祖の代に「帰化」した家系の者がいる、だから「外国人参政権」にこだわるのだ、と発言したらしい。

僕も、「外国人参政権」には反対であり、この法案にこだわる民主党の政治姿勢には疑問を禁じえないが、それにしても自民党系の保守派の連中が、この問題を過大評価し、あたかもそれが国家存亡の危機にかかわるかのごとく大騒ぎするのに対しても、いかがなものか、と思うところだ。

僕は、この法案は、亀井静香国民新党代表が明確に反対し、法案が可決することになれば連立を解消し、離脱するとまで明言しているのだから、可決するとは思わない。ところで石原慎太郎といえば、かつて、同じ選挙区から立候補した新井将敬のポスターに、「在日」とか「帰化」とかいういたずらを書き込んで顰蹙を買ったことがあるが、それにしても、相変わらず、言動が幼稚で単純であると言わなければならない。

新井将敬の場合は、実際、両親の家系が朝鮮半島系であり、新井自身も幼少時は朝鮮名を名乗り、いわゆる「在日」で、成人後に「帰化」した上で就職(国家公務員)し、選挙に立候補したということが事実だから、その行動はともかくとして、「在日」や「帰化」は事実だったわけだから、いくらかは弁解の余地がないわけではないが、今回の石原発言は、明らかに怪しい「ネット情報」を真に受けての「事実誤認」に基づく問題発言であると思う。

さっそく、福島瑞穂社民党党首が、19日朝に記者会見を開き、「私も私の両親も帰化した者ではありません。明確に否定します。石原知事のようにそのことを問題とすること自体、人種差別ではないかと考えます」「外国人地方参政権に賛成する立場は自分の政治信条であり、石原知事の発言は名誉棄損にあたる」と述べ、発言を撤回しなければ法的手段に訴える、と発言撤回を求めて厳しく抗議しているが、当然のことだろう。

今回の石原発言は、明らかに社民党党首・福島瑞穂をターゲットにしていると思われるからだ。それにしても、石原発言はあまりにも幼稚である。韓国、北朝鮮、中国を眼の敵にする民族差別的発言は、偏狭なナショナリズムとでも呼ぶべき心理構造に起因するもので、最近の保守派で頻繁に繰り返されているが、僕は、こういうレベルの低い「差別発言」で成り立っているところろに、最近の保守思想や保守論壇の「愚者の楽園化」の原因があると考える。

そもそも家系が朝鮮系や中国系であることが、何故、批判されなければならないのか。僕は、大学で、長年、中国や韓国からの留学生に「日本事情」や「日本文化論」を教えてきたが、最近の日本の保守論壇に蔓延している中国批判、韓国批判の言説の多くは、実態とかけ離れた妄想的なものばかりである。そもそも日本人の先祖をたどれば、朝鮮系や中国系は少なくないだろう。

石原も、自分の家系を徹底的に調査して、それから発言すべきだろう。石原の父親は、石原慎太郎の母親とは再婚で、石原慎太郎には腹違いの兄がいるらしいが、いったい、どういう氏素性の人物だったのか。石原と石原文学にとって、湘南高校時代に急死した、この父親の存在は大きいと思われるが、つまりこの父親の急死は、フロイド的な「父親殺し」のテーマともつながるはずだが、しかし石原は、何故だか分からないが、その父親についてあまり多くを語ったり書いたりしていない。何故、石原は父親について語ろうとしないのか。佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』によれば、こうだ。

「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海でヨットを乗り回した。そのブルジョワ的イメージから、そもそもからして資産家階級の出身だと思われがちである。父親も大学出のエリートサラリーマンだったと思うのが一般的な見方だろう。

だが実際の潔は中学もまともに卒業せず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの船会社にもぐりこんだとはいえ痰壺洗いという最末端の仕事から這いあがっていかざるをえない男だった。肉体労働者階級出身でありながら、そんなことはおくびにも出さずリッチな生活はあたかも天与のものだったかのごときにふるまう。

イメージと現実のこのあまりにも大きすぎる落差のなかに、慎太郎という男の謎を解く一つのカギがかくされている。

同じように若くして急死した父親を持つ大江健三郎が、最新作『水死』をあげるまでもなく、父親の死に執拗にこだわるのと比較してみれば、その差異は歴然としている。他人の家族の家系を誹謗中傷するならば、まず自分の家系をさらけ出すべきである。


義祖父の虐待を受けて、それを避けるため孤児として修道院で育った井上ひさしは結婚すると妻への暴力が激しかった。

石原慎太郎は、貧しい蔑すまれていた父親を見て育ち、三流文士になりあがってひとを蔑み、口汚く差別感情を吐き続ける。

因果はめぐるのである。
ひとから受けた精神的な疵は、今度はひとを疵つけることで神経のバランスを保つのである。

小説を書くぶんには、どのように虚構の中で疵つけても構わない。
しかしこうしたルサンチマンは、政治の世界では人間の社会的関係性の黒々とした闇を深めるだけである。
本来はその闇を照らさなければいけないものを…。