内田樹氏普天間基地移設へのコメント−『結局われわれは米国に侮られている』

内田樹氏が、今週の「週間文春5月20日号」へ普天間基地移設問題へのコメントを寄せている。
いつもながらの「たっちゃん節」が冴えている。
全文を掲載する。

基地問題についての報道や識者のコメントを読んで、素人の印象を言わせてもらうと、「ほんとうは何が問題なのか、わからない」ということである。

鳩山首相が明確なビジョンを示さず、ダッチロールしていることをメディアはきびしく咎めているが、それはメディアが「明確なビジョン」を示しているからではない。

メディアは「米政府も政権与党も沖縄県民もみなが満足する解決策」を早くだせと言い立てているだけである。

ほんとうにそういう解決策が存在し、単に首相が無能や怠慢ゆえにその物質化を先送りしているのであれば、首相は退陣を要求されて当然であろう。しかし、そのような解決策は現実には存在しない。

私たちが望みうる最良のものは「当事者全員が同程度に不満足な落とししどころ」である。

それは結局のところ「程度の問題」であるから、それについて「正否」の用語で語ることはできない。(みんな不満なのだから、「否」であるに決まっている)。

ろくでもない解決策のうちから「際立って利益を得る当事者がいない選択肢」、古い言葉で言えば「三方一両損」のソリューションをみつけるのが、基地問題についての政府の仕事である。

こういう細かい計算仕事をしているときに、怒号や罵倒や憂国の至情はあまり役に立たない(というか積極的に有害である)。

そのような激しい感情は「そもそもどうして外国の軍隊が日本国内にいなければいけないのか」という、より本質的問題を論じるときにエネルギーを備給するために取っておいたほうがよい。

治外法権の外国軍基地を領土内に置いているのは、わが国がアメリカの軍事的属国だからである。

日本はその意味では主権国家としての条件を全うしていない。

主権国家として、アメリカと対等の外交関係を確立することがわが国の悲願である。
その願いが達成するまでの道はたしかに遠いであろう。

けれども、属国を「恥じる」というぎりぎりの矜持だけは維持しなければならないと私は思う。
その恥の感覚をなくすことは、属国であるという事実よりもさらに恥辱的だからである。

沖縄の基地問題についての日本の基本的立場は「在日米軍基地の全面撤去」である。

だが、それは日米の力関係からすると、現実的な要求ではない。

識者たちが言うように、基地の撤廃は東アジアの地政学的条件からして現実的ではないというのではない。

東アジアの軍事的緊張に備えることがそれほど喫緊であれば、米軍が韓国内の基地を三分の一に縮小したり、アジア最大のフィリピンのクラーク、スービック両基地を返還したのは(両国民がどれほど激しい基地返還運動を展開したにせよ)ほとんど「狂気の沙汰」と言わねばならない。

東アジア全域で米軍が基地縮小に動いている中、日本だけがその流れから取り残されているのは、要するにわが国がアメリカに侮られているからである。

「侮られないようになる」ために最初になすべきことは、「私たちは侮られている」という苦痛な現実をまっすぐに見つめることである。

そこからしか話ははじまらない。

切り口は違っても小生がMIXIで述べてきたこととピタリと重なる。

ただ以前小沢一郎の「政治と金」問題では、一点だけ異論を唱え、批判を加えた。
小生の知人たちは、それを支持してくれた。
http://d.hatena.ne.jp/haigujin/20090502/1241244375

だが内田はレヴィナス研究者だけあって、みごとにタルムード(ユダヤ教の説教)話法を心得ていて、説得力にかけては見事である。

かれの現象学的分析による語り口は、ますますこの混迷する世界の脱構築をしてくれることだろう。