新聞メディアの危機と劣化-朝日新聞の凋落

ここ急激にマスメディアの劣化が取りざたされるようになった。

それは政権交替にともない、自民党政権とともに歩んできた既得権益層のひとつとして指弾を浴びている。

昨日も、「たかじんのそこまでいって委員会」にめずらしく田原総一郎が出演していて、かつての「サンデープロジェクト」時代のことを暴露していた。

各社の新聞記者が番組を必ず観に来ていて、収録が終わると談合(記事打ち合わせ)をしていたというのだ。
つまり「特オチ」(特だねを逃すこと)を恐れて横並び記事を打ち合わせしているというのである。こういう事実がいたるところで発生していることは、神保哲夫や上杉隆などフリージャーナリストからは今までにも何度も指摘されていたが、彼らが指摘すると新聞メディアに飼育された者たちは、彼らが嫉妬とやっかみで暴いているように受け止めるきらいもあった。
しかしさすがに田原が暴露すると説得力があるというものである。

わたしは、新聞メディアを批判するポイントが速報性の敗北という以上に、この新聞の命ともいうべき生の情報提供能力そのものに危機があり、既存新聞社の記者が独自の大胆な切り口から特ダネを追う力が落ちてきている点にあると思っている。

端的に言えば、記者の思想の放棄である。
ニュースの価値判断は、ひとつの文脈、すなわち現実を見る眼=思想的バックボーンに拠っているからだ。

それから、ニューメディアによる追撃という媒体の機能的問題もあるのだが、ここでは長くなるので深入りしない。
ただ媒体の機能論だけで新聞メディアが凋落するかというとそうは思わない。

社会学的なアプローチによって、共通の話題を必要としない乃至は共通の話題自体を生み出し得なくなった「分衆化」が原因で、新聞メディアは時代とともに淘汰されるのは必然だとする考えも、少し違うように思っている。

どのような社会であっても、わたしたちが人間である限り、「わたしたち」という人類史的文脈はなくならないのであり、これこそが人間が人間たる社会を保っているからだ。

従って、公共の言論空間は責任主体として体温を感じとれる距離で必要とされ、特に民主主義を経験した世界では、顔の見える責任主体が構成するその良質な公共の言論空間が構成されなくては民主主義自体が衰退するであろう。

さらに、本日のブログ「永田町異聞」氏の「これでいいのか石川議員手帳メモ誤報の後始末」(http://ameblo.jp/aratakyo/)が指摘しているように、新聞社自体の不誠実さが、役人と同様愚民扱いしてきた市民の成熟に断罪され始めているということだろう。

ここに書かれている日経新聞社の回答は恐るべき不誠実さに満ちている。その後が報じられていないので判らないが讀賣新聞社もおそらく似たような対応に違いない。

つまり新聞メディアは自らの使命と読者へ誠実に寄り添うことを放棄し、自らを食いつぶし、それが良質な公共の言論空間を閉塞させているという事態であって、新聞媒体自体が不要になっているということではない。

そこを誤認して、盥の水と一緒に赤子まで流してしまわないように、「新聞人」は危機の分析をしっかりして、問題の本質を誤認しないことである。

そんなことを考えていた折、「ジャーナリスト新聞2010年5月17日号」の論説がこころに響いたので全文を紹介する。

「朝日の落日?を憂う」


「平家を滅ぼすは平家である」とある。
これに習えば「朝日を滅ぼすは朝日」となる。長年続いた盛名もここ十年未満で、企業の顔が余裕ならざる表情に変わったと感じる。

"朝日の没落は新聞の没落に通じる"と、企業年金、高額人件費、社員の意識改革など、記述ではなく直接局長、役員、首脳陣に進言してきた。広報政策では厳しい批判も。

伝統的権威の奢りが沈殿、意識の目覚めを遅らせ、危機感共有の結滞さえ感じられた。
内部批判の衝突もあり責任論を避けて、果敢に挑む迫力が低迷し、紙面の躍動感がいまひとつ伝わらない。
らしくない主張の揺れや乱れが外部批判者の好餌となる。

 外部批判者は、朝日のシンパシーを削ぎ落としたが、有名税とする楽観論と、伝統的権威の媒体力の自讃もあって、謙虚な自己改革の思惟に至らず、余裕の勢威せ繕っていた。

評価は急激に低下した。やがて知識層の購読離れが進行する。
 数年位か、ライバル讀賣と格差の縮小が表面化したが、それに対する反発や奮起の情熱が薄れた感じだ。

秋山社長は、近年の広告の激減、部数の低迷など、経営環境の変動に対処する社内機能の不作為、焦燥感を、ふと洩らしたことがある。
 トップの責任と、孤軍奮闘する苦衷が見えた。社内の権力行使が穏健では、非情の決断をとも諫言した。

販売の活力について言えば、讀賣より部辺りで130円、朝刊単位で330円基本原価が高い。販売局の潤い、系統内には暖簾の暖衣栄光の味覚と、安寧の緩みが漂う。

 温室意識の馴れ合い、闘争力が弱化して、情熱の動機すら掴めぬ。本社離れと自我の喪失が進んでいる。

 本来、販売活力は、地域ライバル紙の戦争であっても、実は系統内の競争拡大が、勢力の分布図となる。
 換言すれば、競争は系統内淘汰の図式が逆に活力を生む。荒々しさは影を顰めた。部数の停滞と逼塞で総合的な疲弊の渦に引き込まれた。

 その中、朝日は社員が志操統一して大奮起しないと、第二のJALに陥るだろうとの危機的警鐘が響く。

 J-READの09年調査(属性別到達率比較)、讀賣。朝日の比較では全国で3.6ポイント(前年比1.8ポイント拡大)、一都八県では9.7ポイント(同4.2ポイント)の差が開いた。

 大きな例では「一ヶ月の小遣い額」で、前年まで各項目一桁台をリードしていた朝日が全部門讀賣に逆転された。
「給料事務・研究職」「経営・管理職」「一部上場企業の勤め人」、個人収入「600万円以上」「800万円以上」、世帯収入「1000万円以上」「1200万円以上」「1500万円以上」などいずれも逆転された(一都八県)。データは誤差もあるが傾向値は判る。
さあどう感じるか。

 冒頭の言葉を玩味し、清明強悍の士を結集、踏ん張って倦土重来を期し奮起を願いたい。
朝日は新聞の存在評価に直結しているからである。
(堵)