■ 民主党は若泉敬の苦悩に立ち返れ−普天間移転問題

細野氏、普天間問題、司令塔があいまいだったことが問題
(読売新聞 - 06月19日 21:48)
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司令塔が問題ではないだろう。
民主党の理念と戦略の脆弱さが、官僚主導=対米従属派、安保マフィアに敗北したということだろう。

細野クンは、有能だがこの問題では読み違えをしている。

立場を超えて、日本人であるなら、若泉敬(1972年当時39歳、東大教授の保守政治学者)の苦悩を一人ひとりが共有することである。

今夜(19日)のNHKスペッシャルの若泉敬沖縄返還交渉密約問題は、出色であった。

観ていなかったひとは何のことだかわからないだろうが、眠いので詳細は省く。

核爆彈の有事の持込を佐藤=ニクソンの極秘条約を交換条件に沖縄本土復帰は成立する。

アメリカは、この極秘特使若泉を相手に、日本の核持込に対する世論の不安を逆手にとって最大の成果を上げようとした。

交渉が膠着状態になると、アメリカは核問題を極秘に扱うことを条件に、返還を承認して日本に成果を与えたように見えた。

見えたというのは、日本側若泉敬はその達成感をメモしているからである。

しかし、アメリカの本当の狙いは核の取り扱い以上に、沖縄をアジアの軍事拠点として無期限に不沈空母として使用することだったのだ。

そのときの条約には、沖縄の使用期限は全く入っていない。
結果としてそれは若泉の敗北である。

彼は沖縄の復帰をとにかく優先したが、その後は政治家が基地撤去の交渉を順次していくものだと思っていたが、それは本土国民の無関心も相まって手付かずのまま残り、不祥事や事件だけが増えていく。

沖縄に負担が集中していくのである。

かれは、自分の不明を恥じ結果責任を背負い、条約交渉の顛末を一冊の本(「他策ナカリシト信ゼント欲ス」文芸春秋)にして興論をなさんとした。

しかしこれほど重要な密約問題に外務省は一切知らぬ存ぜぬと無視。
国会の証人喚問なく、政治家もだれひとりこの問題から再び沖縄の真の復帰を果たそうと動く者がいなかった。

1996年、若泉は69歳、絶望の中で服毒によって自裁して生涯を終える。

若泉は晩年、沖縄を訪問しては復帰を優先させた自分の判断をあちこちで訊いては、自問自答の苦悩地獄を彷徨い、慙愧の念に耐え得なかった。

慰霊碑の前で正座して一心不乱に祈っている写真が残っている。

沖縄の観光案内チラシが遺品の中から見つかるのだが、そこにはポスイットが貼り付けられていて、「慰霊碑の後食事だと?観なければいけないのは米軍基地ではないか」とメモされている。

この交渉を一任した佐藤栄作首相は、その後この返還問題を称えられてノーベル平和賞を受ける。

若泉も佐藤も死んで、佐藤の自宅からトップシークレットとタイトルが打たれたニクソンと佐藤の連名のサインの極秘覚書が発見される。

当時、若泉がこの密約を告白、世間に再び沖縄基地撤去を問おうとしたか、それをありえぬ話として葬り去ったのが、当時の外務省斉藤外務次官である。

いつも官僚が真実を国民に知らせず、対米従属を維持しようとする。
斉藤はまだ存命である。どう考えているのか?

自民党をはじめ、戦争を経てきた保守派が、アメリカとの同盟はあくまで自国利益のために利用するという明確な戦略を持っていた。

その保守派が劣化して、いまは心底アメリカに日本を毟り取られて嬉々としている。
アメリカとの戦略的対応をなくし、唯々諾々と尻尾をふるポチばかりである。

民主党のこの問題の困難さは良くわかるが、司令塔がいてもその司令塔が、若泉敬のような死をかけて向き合う気迫をもたない限り、相手は動かないことを知っておくべきだ。

それにしても、この本土復帰の密約を自分の手柄として悩みもせずノーベル賞を貰った佐藤と、苦悩の末に自裁した若泉の人格の違いを思わずにはいられない。