■外務省<外交文書公開>−現実保守派はいつから「米国従属ボチの楽園」になったのか?

<外交文書>岸首相、安保交渉で「巻き添えは困る」と懸念
毎日新聞 - 07月07日 21:33)

 1960年の日米安全保障条約の改定交渉当初、米側が示した安保条約の地理的な適用範囲について、当時の岸信介首相が「朝鮮、台湾の巻き添えになるのは困る」と難色を示し、在日米軍基地からの補給についても「無条件で使っていることは問題だ」と懸念を表明していたことが7日、外務省が公表した外交文書で明らかになった。安保条約の適用範囲拡大には、旧社会党など革新勢力が「米国の戦争に巻き込まれる」と反対していたが、改定交渉を推進した岸氏も「巻き込まれ論」を警戒していたことがうかがえる。

 米側が58年10月に示した草案では、安保条約の適用範囲を「太平洋地域」と広範囲に記していた。公開文書によると、58年10月18日に外務省の山田久就事務次官が安保改定に関する省内協議を岸氏に説明した際、岸氏は「沖縄、小笠原、米と共に渦中に投ぜられることは覚悟しなければならない」としながらも、朝鮮、台湾での有事に触れ、米国主導の戦争に日本が巻き込まれることに懸念を示している。

 その後の日米交渉により、安保条約の適用範囲として第6条に「極東」条項が盛り込まれた。日本政府は極東の範囲について、「フィリピン以北で台湾、韓国を含む日本周辺地域」と定義している。

 また、7日公開された文書では、沖縄返還を巡る交渉で「核抜き」に言及した当時の三木武夫外相に対し、ジョンソン駐日米大使が強く反対していたことも明らかになった。68年5月に開かれた会合に関する文書には、三木外相が沖縄に配備されていた核兵器撤去の可能性をただしたのに対し、大使が朝鮮半島や中国の脅威を念頭に「沖縄に核兵器がなくなれば共産側に行動の自由を与える」と激しく応酬したことが記されている。【中澤雄大
 ◇30年ルールを初適用、参院選前にアピール狙う

 外務省は7日、これまで非公開としてきた1960年の日米安全保障条約改定と72年の沖縄返還交渉に関する外交文書のうち、計37冊、約8100ページ分について東京・麻布台の同省外交史料館で一般公開を始めた。作成後30年経過した外交文書は原則公開するとした、新規則の適用第1号だ。

 新規則は5月に制定された。背景には昨年の政権交代以降、情報公開を積極的に進めてきた岡田克也外相の強いこだわりがある。参院選前に新規則の下での公開を実現し、情報公開への取り組み姿勢をアピールする狙いもある。岡田氏は6日の記者会見で「一定期間を経過した行政文書は国民共有の知的資源だ」と指摘した。

 従来、外交文書は「外交活動に影響を与える」などの理由で非公開となるケースがしばしばあった。これに対し、新規則は「非公開部分は真に限定し、文書の歴史的意義は文書自体に語らしむ」ことを基本的考え方としている。非公開とするのは、有識者と省幹部でつくる外交記録公開推進委員会が公開で適否を審査し、外相が了承したものだけ。同省は推進委を3カ月に1度開催し、30年経過した文書約2万2000冊を順次公開する。

 ただ今回岡田氏は、推進委が公開対象とした38冊のうち1冊の公開を「関係省庁と調整中」として見送った。しかし調整のめどはついておらず、同様の事態が頻発すれば「外相の恣意(しい)的判断だ」との批判を浴びかねない。【上野央絵】

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1268483&media_id=2

アメリカの真似でしか外交文書も公開できない日本の外務省はどこまで米国のポチかとも思うが、前進には違いないので良しとしよう。しかし結局無難なものしか出さない恐れがつきまとう。

それにしても、あの岸信介が米国に引きずられて戦争に巻き込まれることを懸念していたとは。

反安保の国民と根底では通じている考えだったわけだ。
岸は結局アメリカの交渉で「太平洋地域」を「極東」に限定させた。

しかし、これでは実質的に最も紛争の確率の高い地域であったわけで、問題の禍根を生み今に引き継いでいる。

また、三木外相の沖縄返還交渉の核抜き本土並みはさすがだ。
いまどきの歴史性を喪失し節操を失くした右派からすれば、当時の自民党総理はサヨクにみえることだろう。しかし、これが保守本流国益なのだ。

外務官僚は、その問題はアメリカの機嫌を損なうから大統領交渉の場には出さない方がよいとセーブしたにもかかわらず、三木外相はそれを制して交渉の果実を手にした。

この戦争を経験してきた自民党保守本流は、アメリカとの付き合い方にも、根底で国益という一本の筋を通している。

ご存知のように、岸信介は一国の総理でありながらCIAのエージェントだった。
55年体制」の出発は、とりもなおさず反共という利害で一致したCIAの資金で、強力な反共保守政党自民党という親米政権を作ることだった。

それにしても、戦争を経験した世代の政治家は、イデオロギー的な違いを超えて、対米戦略の根底には、アメリカの都合に屈っせず、逆に国益のために利用してやろうというある覚悟が垣間見える。

それがどうだ。CIAに金を貰い続けたその後の保守派は、そんな戦争世代の愛国的心情をなくしてひたすら米国隷属ポチに堕落していった。

身も心も、骨の髄までアメリカにしゃぶられ隷属を恥とも思わなくなっていった。
それは国民も一緒だった。

パンバンになった女でも、負けただらしない男よりも、女が躰を挺してアメ公をやっつけるんだという屈折した心情と気概をもっていた。

いまアメリカ兵に群がる女は、ただ無邪気なアメリカへの憧れだけだ。

60年安保の対立は、そういう意味で政府も反対派も愛国を根底にもちながら激突した最後であったのかもしれない。

もう今の若い人たちや研究者でも、このときの全学連委員長の唐牛健太郎の名前はほとんど知らないだろう。

彼が直腸癌で死ぬ晩年の二年間ほどを、わたしは縁があって一緒の職場で過ごしたが、うわさに違わず豪放磊落かつシャイなひとだった。

もう余命幾ばくもないと言われたときも、多忙にかまけて結局見舞いにも行かず心残りの訣れとなった。

伝え聴いたのは、点滴の支柱を引きずっては病院地下の自販機へいき、ビールを買って死の直前まで旨そうに呑んでいたとのこと。結局最後まで酒を生涯の友としたようだ。

あまりに若い年齢で歴史的偉業を成し遂げて、あとの人生は彼にとっては余生にも等しかったのではないか。身の置き処にどうしても自身で納得できない、そんな風にみえた。

日本共産党とソビェト連邦が共産主義革命の唯一絶対の前衛ではなくなったのは、唐牛ら全学連主流派の圧倒的な運動の指導力によるものだった。以後あれほどの大衆運動家はでていない。

唐牛に生きていたらこの文書類をみせてやりたかった。
嘗ての盟友西部邁あたりの転向し屈折した保守思想ではなく、最後まで沈黙した唐牛の感想を聞いてみたかった。

この公文書の詳細な研究や評価は、専門家がそのうち発表するだろうから期待して待ちたい。