■俳人・文芸評論家生野毅著『ある戦いの記録』−書評望月至高句集『辺縁へ』小論

最近、若松孝ニ監督の映画『実録・連合赤軍浅間山荘への道程』が公開され、大きな話題を呼んだが、浅間山荘の攻防戦の模様がテレビで報道されていた時、私たちの世代はちょうど小学生だった。いわば高度成長期のただ中に生まれたオタク世代と呼ばれるこの世代のその後の人生において、同時代と激しく擦過するような「戦後」や、その「戦い」を象徴するようなできごとがあっただろうか、と映画『連合赤軍』を観ながら考えた。

例えばオウム真理教事件の根底には浅間山荘事件の陰惨な結末へと向かった過程とは異質な、思考の「本質的空虚」があり、それ故地下鉄サリン事件は実行犯たちの証言を鑑みても、真にテロ(戦い)の名に価する行為であったのだろうか、と。

しかし、社会学者の小谷敏が、戦後日本の世代間の亀裂の要因を日高六郎の言葉を借りてくり返される「人工地震」であると形容したように、私たちの国において、実存の深さに達するべき「戦い」は常に真の「変革」の手前で引き返すことを余儀なくされてきたのではないか…。


 昨年上梓された望月至高の句集『辺縁へ』の栞の文章を、大井恒行は作者が自ら同年生まれの「団塊の世代」であることから書き始め(『顧みる落花にあらず』)、池田正博は「時代の荒廃に眼を凝らし、自らを内省する作者の苦悩はいっそう深まったようだ。それは本句集全体に影を落としており」…(「句集『辺縁へ』に寄せて」)と指摘している。

 もちろん、一冊の句集を読むことは世代論を読むことではないし、私は同世代者故に見出しうる時代固有の感性の痕跡を『辺縁へ』の中に容易には見出すこともできない。

私が『辺縁へ』を読んで深い感銘を受けるのは、作者が同時代や(師・鈴木六林男をも含めた)さまざまな<他者>との相互擦過の試練の果てに結晶化しえた、個々の句が耐えている実存の重さとその静かな震えである。

  敵味方いずれも転ぶ松の芯

  木犀に許されている膝枕

  毀れ行く運命にあり青き踏む

  月光に法衣を濡らし手淫かな

 ここでは何かが深い痛苦と共に血を流し、同時にその傷は不思議なすがすがしさと共に外界に開かれている。
それは私たちの世代の「本質的空虚」を深く穿つものである。

カフカの『ある戦いの記録』は、余人には名状し難い「戦い」の痕跡そのものの強度で成立しているが、句集『辺縁へ』は、同時代との対峙の中で、「人工地震」を超えて実存の深みへと一行一行刻印された「記録」に他ならない。

図書新聞2869号(2008,5,17土曜日)掲載−

(註)
1.作者名は、著書では本名雅久での発行ですが、ここでは俳号に変更しております。
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