■中国漁船衝突ビデオ流出事件?−官僚・公務員の暴走の危険

映像流出 菅首相、管理の不行き届きを陳謝
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1400416&media_id=88

菅総理が、政府行政機関の海保か検察である限り、その情報管理のデタラメぶりを長として謝罪するのは当然である。

それは、政府にかわって情報公開したからよくやったなどという意見をいう政治家、コメンテイターたちは、本当の危機を見誤っている。

近代官僚制は、法治であり、実定法主義でなくてはならない。
つまり、政治的判断で、官僚が自ら判断をしてはならない。

この近代が絶対王政時代よ優れたシステムとして成立しえたのは、王貴族の恣意的指揮の弊害より、近代国家システム(官僚制)を国民はより公平な運営ができると認めたからだ。

しかしまた、この官僚システムはさまざまな弊害をもつのであるが、その最たるものが、ときとして官僚の部分が全体の適合的政策方向を無視して暴走し、国家的損失と国民を犠牲にする、という点である。

頭を無視して、勝手に手や足が身体を離れて暴走するのである。

その弊害が最も悲惨な結果をもたらしたものが、戦前日本の軍官僚の暴走である。
同時に、その軍トップの政策を無視して、暴走したのは満州に常駐していた関東軍だった。
日本軍は、このとき二重に暴走していたのである。

ノモンハン満州事変の愚は原理的にはそのような構図をもっていた。

この軍官僚は、天皇にはうその報告ばかりして、満州で泥沼化した。
昭和天皇は、戦後このことを死ぬまで悔しがった。


今回の機密漏洩を囃した称えるムードは、この官僚役人のもつ弊害を正当化し、国民の負託した政治意思を無視している点で、許される話ではないのだ。

もちろん政治の劣化はいたるところで見られるのだが、それは政治過程の問題として扱われなければならないだろう。

政治が劣化している顕著な事実は、野党自民党他が、まともな原理原則を死守しながら批判するのではなく、こうした官僚の暴走をむしろ煽っているという低レベルだから、民主党はのらりくらりただ時間を費やすだけで、ではどうするのかという日本の統一した対外戦略を一致協力して出せずにいる。

所詮党利党略、政局の具にしているのだ。
自民党もこんなテイタラクでいるかぎり、政権など程遠い。


さて、話は変わるが、いよいよマスコミは小沢の次は仙石にターゲットを絞りバッシングのようだ。

先週の「週間朝日」で、田原総一郎が推測していたが、どうも仙石さんを叩きはじめたのではないかと、知り合いの記者たち何人かに聴くと、間違いないという答えだった、と書いている。

この話はわたしも記者たちの会話からほぼ間違いないと確信した。

小沢叩きしている間は、ワイドショーネタに飛びつく圧倒的多数のB層がいるので新聞は売れもし、TVは視聴率もとれる。

ところがここ小沢が一段落したら、新聞・雑誌の売れ行きがさっぱりということのようだ。
眼玉商品をつくらなければならない。アクの強そうなやつを叩くほど世間は沸き立つ、ということで、仙石官房長官のようだ。
売らんかな主義のマスコミ各社の集合的無意識が、仙石に着地したということなのだろう。

しかし、仙石に官房機密費をもらった記者のリストを握られている限り、ほどほどに終わるのではないか。

仙石の息子の司法書士事務所へ政治資金を人件費として流した事件をスッパ抜いたのは朝日であった。しかし漏れてくるのは、政経部ではなく社内ライバルの社会部が書いたとのことだ。
政経部は官邸におもねて、額も少なかったことから書かなかったのだろう。

そのうち、小沢裁判が始まれば、またメシのタネとばかりに、マスコミはセンセーショナルな煽り記事、ワイドショーを用意して、仙石たたきはつかの間の浮気のようなものとして抑制されるのではないか。

いくら自衛隊を沖縄派遣しても、このようなマスコミのワイトセショー化し、ファスト政治化は、諸外国からすれば屁のツッパリにもならないと嗤っていることだろう。

外交が弱くなった時に、いたずらに武力を持ち出し、敗北するというのが歴史の教訓だとすれば、危機の本質を正確に把握しておく必要がある。それにはどうも日本国民はマスコミやデマゴーグに強姦された生娘のごとき素朴従順さで、洗脳され萎縮した脳にはこれからが思い遣られる。

なおこの事件で、日曜日に田母神とか小池百合子西村慎吾などの民族排外主義者の右翼デマゴーグたちがデモをしたらしいとNHKがニュースで流した。

ナレーションは、「市民が中国漁船衝突事件に抗議」と喋っていたが、嗤ってしまった。あんな用意周到に仕組まれたデモが市民であるわけがない。

だいたい一般の市民が、あれだけのでかい日の丸の旗を持っているわけないだろう。日の丸の旗の林立は明らかに国家イデオロギーをふりまく団体が仕組んでいることは明々白々ではないか。

それに引き換え、実名をなのり、顔だしまでして、自らの責任主体を明確にして実行された、「検察とマスコミの横暴に抵抗する市民の会」こそが市民というにふさわしいデモである。
稚拙ではあったが、止むにやまれぬという普通の市民が立ち上がったことがよくわかる。貧弱すぎるくらいだった。

市民とは、そのままでは抽象的概念にすぎない。しかし、市民とはフランス革命で生れたシトワイアン、英語のシティズンである。

その含意は、自由と民主と博愛を、自己の主体的責任で獲得する人々という意味を含意している。

ただの排外主義的民族主義者がなんで市民であろうか。言葉の使い方からして時代がおかしくなってきているのだ。

中国と同じ単純な相似的倦厭態度をとっている限り、中国に勝てないことをしらねばならない。

レアアースどころではなく、いまやわれわれの生活の首根っこは中国に押さえられ、抵抗しようが逃れられないところまできている。

グローバル化の掛け声で中国依存を強めたのは90年代の自民党・財界だ。その流れに棹差せば、たちまち経済的に置いてきぼりをくい、国民生活は逼迫するのである。

地政学的にも縁の切れない中国との付き合いに、B層にも政府にも智恵と戦略がなさすぎる。