■ノーベル平和賞のでたらめさ−劉暁波氏の欠席

劉暁波氏が出席できない、という事態はもちろん非難に値する。
中国政府の国家主義的人権抑圧は非難されて当然である。

このことは、以前も述べたが、中国が共産主義国家だから発生している問題だと思い込んでいる「愚者の楽園」の住人たちに加担することではない。

一緒にされては迷惑だ。

後進国家が、西欧的近代を手に入れる過程で発生する上からの近代化が、必ず国家主義的抑圧を伴うというにすぎない。
それは、社会構成体が個人的独裁国家国家社会主義であろうが名前に関係なく同じである。

ヒステリックに中国を非難することは、己の歴史認識と無知を晒しているにすぎないのだ。

日本の明治から昭和前半に、不敬罪治安維持法でろくな裁判もせず、「赤」だといわれれば何年でも獄に繋がれた時代と同じ過程をとっている。
もちろん、それにスターリン主義的党至上主義が輪をかけているといえるだろう。

そんな判りきったことよりも、ノーベル平和賞が、あたかもこの世の正義を体現し、受賞者は他の部門と同様に価値を持つものだと素朴に思っている連中こそおめでたいといえるだろう。

日本人は、あの1970年改定の日米安保条約の折、まんまと日本列島を未来永劫にアメリカの不沈空母として利用させる約束をし、なおかつ核兵器持込の密約をなした佐藤栄作元総理が、平和賞を受賞したことを知っている。

40年たって核密約文書が発見され、国民を欺いてきたことが暴露された。

当時も佐藤の受賞に、日本人は受賞基準がどうなっているのだと首をかしげたものである。

一方、この日米交渉の密命を帯びてことに当たった若泉敬は、一向に沖縄基地移設に日米政府が取り組まず、自分の交渉が完全に裏切られたと知って、自責の念に駆られて自裁して果てるのである。

われわれは、自責の念に駆られて自裁する者と、交渉をひと任せにして、手柄だけを自分のものとして平和賞を臆面もなく受賞する人格の違いを、みてしまっている。

オバマにしても、そんなに就任2年程度で、核軍縮を言い出した程度で殆ど実績のない間に与えるなど理解に苦しむ。

それも、財政逼迫と「国家toテロリスト」に危機が変質したというアメリカの勝手な事情が言わせていることで、オバマが本当に世界平和を望んでいるなどと信じているオトナは殆どいないだろう。

すくなくとも、ノーベル平和賞が価値あると思っているのは、未だに反共思想に絡め取られた自称自由主義者たちだけの価値でしかないのだ。

劉暁波氏は一刻も早く開放されるべきだが、「自由主義共産主義」という古い図式に撞着して、それぞれが鏡像現象を形作っている限り、残念ながら劉暁波氏の開放は当分ないだろう。

いずれにしても、ノーベル平和賞とはその程度のものなのだ。