2.12大阪デモを終えて--日常意識を切り裂くことができるか?!

市民が支える「大阪宣言」の会のウェブへ書き込みましたコピーを転載しておきます。

スタッフの石原氏、天橋立の愚痴氏他諸氏には本当にお疲れ様でした。
一回目よりも格段にデモらしくなり、発するオーラも強力だったように感じました。

スタッフの方々、参加者のみなさん、お疲れさまでした。

小雨も上がり、デモのときだけ日がてりました。
わたしたちの念力?が天運を引き寄せたようです。笑。

今回は撮影隊もいましたようなので、前回のように撮影せず歩くだけでした。
しかし、ニコ動も他のも、中継は終わっているというようで観れません。
どなたかYouTubeアップされているのでしょうか?
一番簡潔でアーカイブもしっかりしているので、是非お願いします。
iPhonならそのままアップできますしね。

さて、皆様のご意見の中に、ひたすら一般の市民からの反感や違和感をもたれないようにという配慮の記述が見られます。

もっともな配慮ですが、それぞれの団体のスタイルがありますから、さまざまな表現スタイルがあっても止むをえないと思います。

日の丸からゲバラの旗があったのもこのデモが、どれだけ広汎な主張を包摂したものか理解できます。恐らく、検察庁の人権無視糾弾から小沢政策支持から小沢個人支持から民主党執行部批判から漠然と政治を変えて生活を良くして欲しい、こうした幅の広い動機で参加されたのでしょう。

とりあえずこうした雑多さを美点にしたほうがいいでしょう。いずれ分解もあるでしょうから。

注意することは、わたしたち自身が日常意識のまま、検察正義で小沢クロだと思っている人達に迎合することではありません。どのようなスタイルでも、正しいと思うことを毅然と主張することです。スタイルで反感を持つような情緒には論理で対抗することです。日常意識を反省的に省みることができないひとと摩擦を恐れてはいけないでしょう。

確認すべきことは、どのような政治行為も、単純な行為に還元されるということです。
どのような政治的理念も、政治行為としては、叫ぶ、拳を挙げる、旗をふる、殴る、火をつける、などでしかないのです。
身体表現として、高度なものはないのです。

逆にいえば、昔の左翼のスタイルを今は「在特会」などの右翼が踏襲しているのも必然なのです。
デモはいってみれば、日常を一瞬引き裂き、日常性を支配する無意識の思考をさらしてみようとする行為でもあるのです。
反感も違和感も眠れる者たちには奇異にうつるでしょう。それこそが魂を揺さぶり、新たな共鳴を響かせる仕掛けなのです。外面でものを見るクセのひとは哀しいかな何割かいるものです。捨て置けばよろしい。

法を守りながら、最大限異物として主張しましょう。

以上雑感でした。