■中川右介が再びトンチンカンな反論--「週間朝日」2011,3,4号

先週の「週間朝日」に菅直人の側近という中川右介とやらが、自慢げに菅直人の「革命的」政権獲得を誇らしげに述べていたが、そのとき囲み記事で御厨東大教授と旧共産党議員筆坂秀世菅総理を批判した。

それに対して、今週号で中川が反論している。実際には反論にもなっていない程度の低いものだが。

再び、この中川の幼稚で粗雑な政治認識にtweetした。前回同様掲載するが、字数制限が気になり削ぎ落としているため意味が通じにくい箇所もあろうかと思うが、ご容赦願いたい。


なお、前回の中川批判に対して、どこからか凡太郎とかいう変なのが現れて、菅直人は政治を続けてきたからおまえより偉い、全共闘は「行動する」ことが理念だったとトンデモないことを言って荒らしていった。
 →http://d.hatena.ne.jp/haigujin/20110216/1297820681

またトンデモな菅直人支持者が現れることを楽しみにしている。
完膚なきまで批判してやるから。笑

以下ツイッター

中川右介なる菅側近が、また頓珍漢なことを言っている。辞めろありきの批判があるが、菅に任期中フリーハンドを与えなければ仕事らしい仕事ができないと言う。就任以降マニフェストを無視し、官僚任せになり、余りの変節に怒っているから、早々に辞めてくれと言っているのだ。国民の傷が深くなるだけだ


中川右介は、菅批判の御厨教授に知り合いなのだから直接官邸へきて注進すればいい、それが参加型民主主義だと。勘違いだ!言論活動をどう思っているのだ?本人に直接モノを言わなければ聞かないのでは、言論活動は意味をなさない。公共の批判言説は聴かないといっているに等しい。参加と直接は違う。


中川右介はまた御厨教授に噛みつく。菅総理が辞めたらまた一から新しい総理になり混乱すると。御厨は、中川が市民運動出自の総理の実験だと言うので、「混乱期の実験はダメ」だと否定する。それに中川は、御厨は矛盾していると噛みつくのである。御厨は菅では更に混乱すると述べているにすぎないのだ。


中川右介の誤認は唖然とする。菅が市民派として出た70年代共産党がブランドで市民派はたいしたことなかった、それをブランドにしたのは菅だと。果たして共産党がブランドだったか?70年代には共産党は既にボロボロだったはずだ。


無党派層が急激た出た時代で、市民派とは人口集中した都市浮遊層に過ぎない。それはただ産業構造の激変により招来した結果に過ぎなかったはずだ。都市浮遊市民が、ときどき利害によって投票行動が変化した層にすぎない。明確な政策理念を持った党派ではない。証拠にいつも弱小グループだった。


中川右介のこの低質な自己認識では、政権についた途端に壁にぶち当たるのは当然だ。何故政権交代が起きたか、内的と外的の分析自体が粗雑なものだと予想できる。


でなければ、中川らの小沢の処遇の仕方は違ったものになっただろう。なにしろ中川らは、直接モノを言ってこなければ「参加」していないと相手にしないスタイルだから、小沢派の声も国民の声も聞く耳を持たない。いや直接言ってきても聴かない。自滅を待つしかないのだ。

わたしは菅直人が総理に就任したとき、このブログでも期待感をもって歓迎記事を書いている。
それがこれほど与太ってしまうとは想像を絶していたのだ。

かつて吉本隆明が、小田実鶴見俊輔のべ平連に対して、市民など小汚い名前だとその実体のいかがわしさを一笑にふした。それを知っていても小田実から社会政治問題を嗅ぎつけたわたしとすれば、心情的にはどこか共感もあったのだ。
また大学時代鶴見俊輔は、全共闘派に付かず離れずの同伴者であった。30年ぶりに再会した折も、わだかまり無く名刺を差し出しながら家に遊びに来いといってくれた。

市民派にはこうした個人的経緯からも、もう少しどこかで期待するものがあったのだ。

しかしよく考えれば市川房枝菅直人市民運動と、鶴見などとは似て非なる市民運動であったのだ。

クリーンな選挙、金のかからない選挙などは、それ自体が政策理念になりえないものなのである。近代化の過程で、市民社会の未成熟性が郷党による名望家政治を生み出し、都市と農村に分解し始めると郷党が企業や農協といった団体献金方式に移行しただけのことである。今は税金で政党助成金という方式で賄っているが、これなどもまだ未成熟の過程といわねばならない。

政党政治市民社会から出て団体によって利害調整する方式である限り、本来なら税金投入もおかしいのである。究極は個人献金方式であるが、市民社会の成熟性により自然解決する問題なのである。

つまりそれ自体が、国家や社会の根本的変革のテーゼにはなりえないものなのだ。
国家や社会が閉塞したとき、取って代わる理念や制度設計を拮抗させてきたわけではないのである。だから彼らがそれらしく振舞おうとすると、正当性を維持しする方法が「政治と金」という空想の課題設定をこしらえてパフォーマンスせざるをえないのである。

凡太郎というクズや中川は、「行動主義」が市民派の理念だったというのだが、市民派だけにしておいて欲しいものだ。
全共闘派はそんなことひとつも言ったことはない。

ここでは深入りをしないが、マルクス主義党派が「実践」概念を政治的行動主義に矮小化した時代に、埴谷雄高は、思想家は屋根裏でごろごろしながら革命を考えるものだと「理論的実践」概念を主張した。吉本隆明はそれを支持した。

市民派が理念もなくただ行動ありきの体質が、頭を空っぽにして空きカン内閣と言われる結果をもたらした。
わたしたちが思想が現実をどう捕まえられるか苦悩し、大衆の存在をどう思想に繰り込めるか難儀している間、ただむやみに俗悪政治空間を浮遊してきた市民派などと全共闘派を一緒にされたくないものだ。