■藤本敏夫(故人)さんのご母堂逝去

藤本さん、といっても今の若い人には解らないだろう。
1967年から71年にかけて藤本敏夫は関西ブント(共産同・社会主義学生同盟)の指導者。
もともと西宮甲子園という比較的高級住宅地に生まれたボンボンであった。詳しくはウィキに。

同志社大学時代、藤本が学生大会などでアジテーションをすると、学生会館は満員となりホールにまで溢れていた。
長身で甘いマスクのこともあり、特に女学生に人気があり、黄色い喚声が怒涛のように会場にうねったものだ。

主義主張はいい、藤本敏夫と行動を伴にしたい、それだけで学生運動に参加する連中もいるくらいだった。それほどカリスマ性があった活動家である。

加藤登紀子との恋愛は丁度その頃。しばしば同志社大学学生会館でも姿が観られ、学生大会の番外として余興に歌うこともあった。

関西ブントの特色は、大衆闘争を重視し、大衆から遊離する運動方針を嫌った。60年安保を主導した第一次ブントの最も良質な遺伝子を引き継いでいたといわれる。
それゆえに、革共同系の粘着的・観念的、日本帝国陸軍的突撃精神などはなかった。
「逃げ足のブント」とも揶揄された。
だから、内に内に閉じていく宗教屋にすぎない革共同中核派は、オルグしても少しも藤本指導下の社学同を崩せない。
そういう意味で、極めて同志社大社学同は健全であった。あの京大の観念クズ赤軍派ができるまでは。

藤本は赤軍派結成の折は、反対派としてリンチを受けながらも、信念を通しブントから離脱。
また、党派対立がはげしくなり、内ゲバが横行してからは、厳しくそれを批判し完全に革命運動から身を引いた。

以後は皆が知る鴨川での有機農法を実践、大地を守る運動に生涯を捧げた。

ご母堂は、平凡な主婦として生きていたにも拘わらず、敏夫が国家権力に追われる人物に育ち、最後は先発たれる逆縁に見舞われて、心労の多い人生だったのではないか?

しかし、お登紀さんの報告では、安らかなお顔で88歳の天寿を全うされたとのこと。
いくらかほっとさせられる。

ひとつの時代が終わる、という感慨は、こうしたいくらかでも知った人物や間接的なりにも知遇を得ていたりした人が亡くなっていく報に接する場合である。

今後益々こうした体験は多くなるだろう。

実際、私的にも高校時代の同級生だった女友達のご尊父が亡くなられ、葬儀が藤本のご母堂と同日にあったのだ。
藤本の後輩と結婚、K市に居住した。関西以西の故郷から遠い地域にいるのはわたしと彼女くらいなものなので、何となく気になる存在だ。何十年ぶりかに会う約束をしていたのだが、急遽キャンセルに。
彼女の母親の逝去の折も、何かたまたま連絡を取り合うことがあって知った。同郷ゆえの縁である。


まだ親の世代の訃報だが、これが今後はわたしたち世代自身の訃報が多くなっていくのだろう。