村上春樹原発事故講演の効率至上主義について

山本太郎脱原発デモに顔だし!「フリーで役者やってます!」と自己紹介し「声を上げれば日本は変えていける」に拍手喝さい!
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1634173&media_id=14

太郎ちゃん頑張ってますね!
前回は大阪大丸前で、私のまえに突然四五人の若者と飛び込んできた。

今回私はデモに参加できず残念。
太郎ちゃん頑張ってくれ!

村上春樹の講演は、評価がわかれていて、効率至上主義の解釈が鍵になる。

相変わらず、行き過ぎた効率追求が問題であって、効率追求を否定してグローバル競争には対応できない、とインテリ層は考えているようだ。

村上が、効率至上主義といったとき、単なる経済学的概念として使っているわけではないのではないか。

日本人のセーフティネットをつくらない技術礼賛、つまりパイロットの脱出や防御を犠牲にして、攻撃特性に特化したゼロ戦の設計思想を典型として、技術設計思想そのものをも含意している。

或いはバックアップのシステム思考を欠落させた日本人の遺伝的欠陥、といったものの含意だ。

原発事故鎮圧の犠牲的特攻隊への賛美。
あれが、システマチックに無難に鎮圧されていたら、日本人は盛り上がらなかっただろう。

効率は、確かに手放せないかもしれない。
今の経済社会の思想レベルでは。

しかし、素早く、便利に、安価に、ということを保証しながら、効率ではないという思想があり得るかもしれない、と私は夢想している。

そこには、今の効率至上主義がもたらす競争と排除と人命軽視が低減ないしは消滅している「効率」である。
その段階では、もはやそれは効率とはいえず、新しい酒には新しい酒袋が必要なように、新しい呼び方が必要となるだろう。

何故夢想するか、またその確信はどこからくるか?
資本主義がその経済的運動の矛盾の極点に達して、限界を越えるため植民主義から対極にある「贈与」概念を生み出さざるを得なくなっている、というアナロジーにある。

原発を制御するより高い技術力を、という方向も、脱原発の方向も、ただの今までの科学技術思想の延長で考えられていて、本当は「どっちでもいい」という思想がありうるかもしれない。

あるかないかは、偏にわれわれの想像力にかかっている。
ヒントはこの宮台のつぶやきにあった。

【社会基盤】イエスがなぜユダヤ教から分出したか。ユダヤ教=戒律を守る/守らない、に対して、第3項=どうでもいい、を付け加えたから。デリダ脱構築も同じです。近代=構築の肯定/否定、に対して、第3項=どうでもいい、を付け加えたから。 is.gd/g2pYs
twittbot.net • 11/06/12 11:19
by宮台真司