橋下徹候補VS「週刊新潮」-部落解放同盟の抗議への疑問?

今朝この橋下VS週刊新潮のバトルを書いたばかりだが、またまた太鼓持ちがでてきて戯画化に拍車をかけたので、いきががりじょう一言蛇足。

「両週刊誌の記事は、橋下氏の父親が暴力団員であったことと、出自であり暮らしていた地区の問題を同列に扱っています。暴力団とその地区がイコールで結びつけられているのです。同和地区に対しての偏見のなかに、“暴力的である”“ガラが悪い”といったイメージがある。両週刊誌の記事はこうした差別、偏見を助長してしまいます」(部落解放同盟大阪府連合会・赤井隆史書記長)
(NEWSポストセブン、2011,11,18)


解同は相変わらずだなと苦笑せざるをえない。
戦後民主主義の理念の拡張とともに、行政のバックアップもあっていまや逆差別ともいわれるほど経済社会的には差別も解消している。

しかし実際の人心にはなかなかなくなっていないのが実態だ。僕は関東人なので関西人や西日本、すなわち土地柄の古い地域にいまだこれだけ明確に地域が特定されて残っていることにビックリしたものだ。

確かに解同のイメージを再生産することは認めるし、ジャーナリズムの書き方にも過去重大な瑕疵があったことも指摘したい。

そのたびに解同はこうした抗議をしてきたのだが、差別は解消しない。
勢い解同が突出することで、また行政の利権と結びつくことで暴力団まがいの組織と誤認される時代にもなってしまったきらいがある。

でも部落差別なくならない。(一般差別ではない)

なぜかといえばこうした手法は、一種の言葉狩りだからである。
事実は事実として書く、報じるということを、イメージをもってしまうから書いてはいけないと組織的に圧力をかける手法は、差別のもつイデオロギー性をむしろ循環させてしまうのではないか?

僕が読む限り赤井書記長が述べるように「暴力団とその地区がイコールで結びつけられているのです。」とも受け取れない。

そんな風には一向に読めない。
むしろ過去に羽曳野あたりで、行政利権を一手に牛耳り部落と暴力団のボスとして戦後君臨し続けた男がいたが、そうした実態の方の問題であって、イメージを結びつけてしまう人々の方に問題があるとアプリオリに断定するの は解同の勇み足だと思う。

「イメージを作る」と一方的に断定するのは解同であって、人々が作るかどうかは判らないではないか!
この一方的に断定して、ジャーナリズムの口封じをするのは、一種のソフトスターリニズムである。

こうした倒錯した解同のやり口は、言葉やジャーナリズムの口封じをしてより差別意識を潜在化したと思うのは僕だけだろうか?

差別は、その歴史性と現在的な社会的矛盾の交点に発生していることを丁寧に説明していくしかないのである。

従って赤井書記長は、「父親の問題は歴史と社会的矛盾の結果であり、橋下候補はその矛盾を個人的に克服してきた。橋下候補個人には部落問題は存在しない。
彼個人に存在しないことをあたかも存在するように書くことは虚偽を書くことで、人権問題でありジャーナリズムの逸脱である。」と抗議すべきではないのか。

そしてできれば「そのようなイメージをもたれることがあるなら、解同も暴力的な抗議や暴力団との個人的な関係がでないように努力したい」といわなければならないだろう。

Tさんが(京都府元書記長)が鬼籍に入られてもう何年になるだろう。
存在の重たいひととはあまり関らないようにしていたが、晩年病を押して句会にでてこられていた。終わるとコロコロ酸素ボンベを引きながら帰っていく後ろ姿が思い出される。
Tさんなら、僕のこの意見を黙って頷いてくれただろう。

蛇足だが、うちの娘は中学生の人権週間の論文で法務大臣賞を受賞している。親は一言もそうした問題を教えたこともないが、学校でよく教育してくれて、娘もその関係の本を読み漁っていた。

橋下候補は、「教育改革」でこうした同和教育時間をカットしていきそうな趨勢である。
こうした差別反対教育への反発や、能力別教育という差別教育へこだわる橋下候補が、全く自身の出自と自己史のなかの諸事件を自己幻想(物語)に繰り込んでいないといえるだろうか?

そうしたことが当然政策に影響していないかと関心をもつのは、なにもジャーナリズムだけではない。選挙民も同じである。

[追記]
ネット上では、「良識派」ともいえる橋下候補を嫌いだが出自で貶めるのはアンフェアで誰を喜ばすことになるのかよく考えることだという意見がみられる。エッセイストの青木かえる(全くしらないひと)など。
こうした一見良識派のようにみられるが、出自問題を中心課題にして人物を評価する点では、差別主義者とパラレルである。差別を固定的に論じたり、総体として固定化するソフトスターリニズムと同類である。
個人的には部落差別を克服して社会生活をしている人もいれば、それに反して被害に苦しんでいる人もいる。そうした実存の契機のなかでみていかなければ、実態はみえてこない。