心優しき人々よ、よいお年を!--政府消費税率切り上げ決定の日に。

消費税率切り上げが報じられた。今は怒りのためか言葉がでてこない。基本的に税率切り上げに何が何でも反対しないが、タイミングが悪いのと、食糧生活用品への配慮がないことで全く容認できない。

また社会保障の一体改革を謳っているが、これも中身が大分後退しているのではないか。いずれにしても、今までの税金の使い方を変えずに不足すればとれるところから取るという明治以来の発想では、またたちどころに行き詰るのは誰にでも解ることではないか。
なにより不満なのは、特別会計の枠組みを温存し、完全複式簿記(今は改善されて単式に添付資料で補っている)採用がないまま、金がないと言い募る財務省主導であることだ。すんなりとは国会を通らないが、最終的には官僚の手が回っているから劣化した政治家には防ぎようがないだろう。

さて年末にあたり、何か気の利いたことでも書こうと思ったが、なかなかまとまらない。
巷間言われるように、3.11東日本大震災から、EU金融崩壊、ビンラディン殺害、金正日死去、など歴史の転換を暗示する政治事件。

大震災をわたしが政治的事件というのは、原因は地震津波原発事故によるがそれに対処するプロセスは間違いなく政治であり、政治が科学的対処を封じ込め、逆に科学は政治主義的に捻じ曲げられて、専門知としての科学がみじんもなく砕かれたことがはっきりしたと思われるからだ。

この政治的な対処が、科学や医学を無効化して今後多くの被曝者を政治的に処理して、社会過程に長期にわたって差別的構造をつくりだしていくことが予想される。日本に絆は仮構されたもので、日本人は実はほとんど一体感を喪失した支配層と被災被曝層と遠距離層との三つに分断されて、相互無関心が構造化していくだろう。

わたしは得意げに占いをしているわけではない。そうあってほしくないと祈る気持ちから敢えて述べている。
そういいつつ、では一体なにができるのか全く考えも浮かばない。多くの国民はそうした立場に置かれて、ツイッターやブログで焦燥の言葉を吐きつづけているのではないのか?
あるいは他力本願で、派手なパフォーマンスの政治家に依存しようとしているのだろう。
しかしそれらは現実を庶民のために変ええないという点でいずれもダメである。

民主党政権に取って代わったが、その裏切りはそうした政治家依存の時代は終わったことを告げている。
せめてエリート層だけでも、日本の近代化の矛盾を理解し、近代的知を獲得したひとたちで正しく民のための治世を導いて欲しいという願望、あるいは未達成の近代主義の徹底を遂行してほしいという日本再生のカードは、結局不発に終わるという事実だけが残った。

この重大な意味は、丸山真男的遅れた近代の徹底という課題自体が実は仮構されたイデオロギーにすぎなかったということを語っているのではないか?
今断定はできないが、そのような進歩派や市民主義派の思想の基本的枠組みの再考が必要ではないのかと、自己反省も含めて考えている。

おりしも来年は江藤淳生誕100年にあたるようで、政治社会的表層への反応は控えて、もう少し原理的な整理からより鋭利な生活思想を確保したいと願っている。

個人的には、定年延長により、初めて内勤となり多忙を極めた。
コンプライアンス遵守を心がけるわが社に感謝してるが、世間では65才までの雇用は厳しいはずだ。

故郷では体が動かなくなった母親をやむなく介護老人ホームに入れた。哀しい生き別れのような感覚だった。
今年は年末になってやけに喪中はがきが多かった。団塊世代の親は長寿で、このような循環に入ってきたのだろう。間違いなくわれわれ世代も老いていく。

娘が正式に国立大医学部に内定したと連絡があり、来春からは正式な医師として自立する。我が家の唯一の明るいニュースだった。

とりとめもない思いつきの年末総括だが、折に触れご訪問いただいた方々には一年分まとめて謝意を表し、よいお年を迎えられることを祈っている。