橋下市長の「対案をだせ」という詐術と田原総一郎の終り

先週2月24日金曜日の「朝までテレビ」で、田原総一郎が明らかにおかしくなっていると思っていたら、女性宮家復活を有識者検討会議のなかで主張していることを知って、これは明らかに毀れたと思った。


旧左翼(スターリニズム)が崩壊するまでは、ときに同伴者の顔をしていたが、微妙に立ち位置をずらして、TV業界を生き延びてきたわけだが、今完全に毀れたといえる。往年の田原総一郎は明らかに変貌した。
往年の切れのいい田原はいなかった。


24日金曜日は、橋下徹VS反対派知識と政治家数名の対論の形式をとって、いつも通り田原が司会をした。
いつもながら、橋下の詐術による論点ズラシは目に余るものがあったが、いつもながらそれが深い思考を導かず、瞬間芸として橋下の論争優位を印象づけていたようだ。ようだ、というのは私には橋下の論理破綻と思考の行き詰りを随所に感じ取ったからだ。
一方、反対派は覇気に乏しく、所詮見せる芸にはほど遠く、明らかにミスキャストといえたし、大衆の劣情を逆手にとって橋下を凌駕するような論争の展開を演出すべくもなかった。
下流の単純化と異質なものの強引な比喩の多用はハシズム手法として、中島岳志は『ハシズム』の中で自制すると述べているが、知識人の良識としては正論であってもそれではファシズムの進行を止められない。ファシズムはそうした理性主義の間隙をぬって大衆心理を掌握していくからだ。
政治とは効果と結果だけが問題とされる領域であって、橋下を論争で凌駕しているというメッセージを発せなければ負けなのである。


田原は随所で確かに橋下の思考の不足を指摘、橋下が詰まる場面もあり、その都度優しくアドバイスしていた。そこまではいいのだが、後日田原はどこかのウェブサイト(「ダイヤモンド・オン・ライン」であったか?)に寄稿していて、知識人がみんな論争に負けるのは「橋下さんがいう対案が出せないからだ」と橋下に軍配を挙げていた。
田原までもが、こういう通り相場のいい話に結論づけてしまうのでは、田原も終わったなと感慨を強くした。


橋下は批判に詰まると「対案を出せ」と喚き、出ないといっては嘲りを繰り返している。
この件について、遥か前からツイッターでは批判してきたつもりだが、世間は相変わらず騙されている。
以下はルソーの『社会契約論』第一篇で、この本を書くモチーフを格調高く述べたものである。


「政治についての論文を書くなんて、あなたは君主なのか、それとも立法者なのかと尋ねる読者もおられるかもしれない。
わたしはそのどちらでもない、そのどちらでもないからこそ、政治について考察するのだとお答えしよう。
わたしが君主か立法者であったならば、自分がなさねばならぬことを語って時間を浪費せずに、なさねばならぬことをするか、あるいは沈黙するだろう。
自分の国(ジュネーブ共和国)の市民として生まれ、主権者の一人でもあるわたしの発言が、公共の問題にたいしてわずかな影響しか及ぼすことがないとしても、この国において投票権を所有するということだけで、この問題について考察するのがわたしの義務であると感じる。さまざまな統治について考察するごとに、こうした考察の結果として、自分が生まれた国の統治を愛すべき理由がみいだせるとは、わたしは何と幸せなのだろうか。」
(『社会契約論』ルソー.中山元訳.光文社文庫)

このルソーの認識は、勃興期の自由と平等を根拠づける民主主義国家のひとりの市民の権利と義務を端的に述べている。
政治家であるなら、ゴチャゴチャ政治談議をしている暇があるなら自分の仕事を黙々と遂行せよ、といっているわけだ。
そして市民は、政治家でないからこそ、政治について発言するのであって、それは市民の義務なのであると。

自分の国が民主主義の国であることを愛すなら、投票権を所有するという一点で政治に発言すべきであり、無名の市民も知識人も公務員もそれは義務であると述べている。

そして、政治家は政治のプロであり、市民の発言にいちいち反論していたずらに時間を浪費してはならい。だまって政策を練り市民の要望を現実化するのが本分なのだと。

この民主主義の基本原則を宣言した「社会契約」の政治家と市民の関係は、今も有効であると考える。

橋下市長は、政治家であるなら、市民の批判に対して、批判がでない政策を黙々と練り直さなければならず、批判に行き詰ったら「対案をだせ」と開き直ることではない。
対話と批判的創造という民主主義にもっとも大事な手続きを潰してしまう、それは自己防衛の逃げでしかない。
これを繰り返す怖さは、それによって批判の言論封殺と対案への架橋を潰していくことである。

そこには明らかな橋下の論理矛盾があるが、誰も指摘しない。
ルソーは自治区の民意をより汲み取り、民意が今より反映した政治が可能だと述べるのだが、この橋下手法では「対案のだせない」反対派は絶えず封殺され、民意は橋下賛同者だけになってしまう。

そもそも、「対案」を一般市民や狭い分野を生業にしている専門家(オタク)が当面の現場を踏まえた政策課題を提出できるのか?
できるはずがないではないか。まして政治言語をもたない大衆は、生活言語で不満としての批判を激白するだけだ。
できないからこそ、政治家という職業を市民社会から外化し、公共の権力を委託しているのである。
橋下の好きな比喩に例えれば、学者が橋下に学者と同レベルの論文を書け、書けなければ専門領域に一切口を出すなといっていることと同じである。

政治家は調査権を持ち、官僚や警察の情報をいつでも収集する権限が与えられている。それは政策を立案するのが政治家の仕事だから許されている権限であることを再認識するべきである。


田原総一郎は、みなさんは権力は強大だと思うだろう?
しかし自分の体験から、かつて橋本内閣をジャーナリズムがみんなでいっしょになって倒した。こんなものか、権力なんかもろいものだと思った、そのときから左翼のように批判だけしていても何もはじまらない、どうするか案をださないとダメだと思ったという趣旨のことを述べている。

橋本内閣は田原らジャーナリズムが倒したというのも傲慢な話だが(わたしのような市井のオヤジでも、橋本は日本の保有する米国債を売りたいと言ったため、米国側に潰されたことは常識ではないか、ジャーナリズムはそのお先棒を担いだだけである。)、
田原の論でいけば、ジャーナリズムなどは成り立たなくなり、みんなが政治家にならなければいけなくなる。

もちろん対案は大事である。しかし対案はだせる者と出せない者がいる。対案を即座に出せる問題と長い時間をかけた論議と熟成が必要なものもある。それを正当な論議の中で仕分けしていくのではなく、為政者が権力を持ったまま対案をださなければお前の言うことは認めないという慣例をつくったなら、政治家は政治家を放棄したも同じである。

為政者に政治的注文をつけるのは、市民の権利と義務であり、政治家が政治を語るのではなく黙々と政策実現をすることも義務であるというルソーの原則論を、橋下市長と維新の会と大阪府民は噛みしめることが必要であろう。

(参考)
タケルンバ卿日記」 http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20090214/p1