新刊のお知らせ、竹田青嗣さんの「完全解読フッサール『現象学の理念』」

完全解読 フッサール『現象学の理念』 (講談社選書メチエ)

完全解読 フッサール『現象学の理念』 (講談社選書メチエ)


精力的に「竹田現象学」を深化しつづけている竹田青嗣さんの完全解読シリーズ第二弾!

はい、まだ読んでいないのにお薦めします。(笑)
独自の解りやすい現象学を確立した竹田さんのこと、得意中の得意フッサールですから間違いなし!


西研先生との共著「完全解読ヘーゲル精神現象学』」(講談社メチエ)はとても面白かった。
辞書がわりに興味のある節をよみちらしているが、そんな読み方でも理解できるほど解りやすく、切り口も「いわゆる哲学書」を超えている。

たとえば、西先生のあとがき「おわりに『至高なもの』をめぐって」の一部をはこんなふうだ。

ヘーゲルの人間存在の本質的認識を評価。
一つは人間が、自我の欲望(竹田の用語では「自己価値」の欲望)と承認の欲望をもっている。
動物と違って自己を認めてほしいという要求と、労働によって死からの回避を配慮する存在だと。それを通じて人間は次第に理性的存在となる。--このようにヘーゲルを解説して次のように述べている。


人間は確かに、未来における自分の生存を確かなものとするために、あれこれ配慮しつつ生きる。「この仕事を明日までに終わらせなければ」と思いながらがんばっている。私たちは他者からの評価と自身の未来とを絶えず「気遣って」生きているのであり、それは、絶えざる不安に動機づけられてもいるのである。

 こうした労働の世界の秩序を生きる人間は、しかし同時に、こうした未来への絶えざる気遣いをすっかり取り払って「いまここに」を十全に享受したい、という欲望をも育て上げている。そうバタイユは考えた。

これ以上なにもいらないと感じ、いまここに完全に充足しひたっている奇蹟的な瞬間。そうした状態を彼は「至高性」と名づけている。それは典型的には、エロチシズムや祝祭という仕方で現れるが、ときに私たちの生活に訪れてくる「うっとりさせる瞬間」でもある。それは「たとえばごく単純にある春の朝、貧相な街の通りの光景を不思議に一変させる太陽の燦然たる輝きにほかならないということもありえよう」(バタイユ『至高性』)

バタイユがこのような思想を展開したのは、その晩年(1940年代〜50年代初頭)のことだが、そこでバタイユが対峙しようとしたものは、生産性と労働が唯一の価値として認められるような時代の風潮だった。
このような、いわば「生産主義的近代」に対抗しつつ、あらゆる有用性の彼方にある、それ自体が充足であり悦びであるような生の次元を掘り起こすこと。これを彼は果たそうとしたのである。

人間が、自我を守り未来を気遣おうとする欲望をもつだけでなく、同時に、自我の努力を解き放っていま・ここの充足を求めようとする欲望をもつ存在であること。そうした二重の欲望をもつ存在として人間を捉えたことは、ヘーゲルにはないバタイユの独創であって、これはバタイユの大きな功績といえる。

彼が有用性を超えたそれ自体としての充足と悦びとを人間存在の根底に据えたことも、現代のわたしたちにとって説得力のあるものだろう。

*

私たちはいま、格差の拡大を懸念しながらも、高度経済成長の終焉後の「豊かな社会」を生きている。職場で勤勉に働いている人も、「生産主義的な価値」を第一とするような見方からはすでに離れていて、それぞれが悦びや享受といった次元を大切にしようとしている。先進国においては「生産主義的な近代」が終わりを告げつつある、といえるかもしれない。

その点で、バタイユのメッセージは私たちに受け入れられやすい。

しかしまた、一方の価値観を失ってしまった私たちは、何を大切なものとして生きればよいのか、どこに向かって努力すればいいのか、という次元で留まっている。

どこにも"ほんとうのもの"がない、というニヒリズムの感覚は、私たちの社会に薄く、しかし確実に拡がっている。
 
 そういう現在からみたとき、ヘーゲルの思想は終わったのか。いや、そうではない、とぼくは思う。
(以下続く)