「一枚のハガキ」--99歳新藤兼人監督の遺言

今日大阪の千里中央のミニシアターで「一枚のハガキ」を鑑賞した。戦中世代の新藤兼人監督の遺言ともいえる戦争を題材にした作品である。

多くの新藤作品を観てきたが、いつも通り淡々とした中に、人間存在の本質的な倫理を描いている点で、新藤の面目躍如とした作品になっている。

作品内容は、私がくどくど説明するよりも公式HPがあるのでそちらを参考にしていただければよいだろう。

HP http://www.ichimai-no-hagaki.jp/

予告編 

ここに描かれた寒村の主人公たちは、決して架空の存在ではない。戦中の9割近い日本人の生活実態であった。猫の額ほどの田畑に小作人として子だくさんでつつましやかに生きていた。

作品の中の定造などは兄弟二人でしかないが、5、6人は普通であった。順々に戦死すると長男の嫁は次々に兄弟と結婚させられ家を守らなければならないのがごく普通の農家の風習としてあったのである。

この作品の優れた点は、現在の戦争を観念的にひとつのロマン的対象としてしか描けなくなった戦争を識らない監督たちと違って、本当の戦争の悲惨さを嘗め尽くした新藤のリアリズムである。
総力戦として戦われた末端の国民、しかもこの実話にもとづく作品のようなオッサン兵が戦争末期には組織され、一家の大黒柱が根こそぎもっていかれ国土も生活も疲弊しきった。
ひとつの戦闘シーンも描かずに、戦争のなんたるかを日本農民の典型を造形することで、語りつくされたはずの戦争の厄災を改めて明示したことは、今の日本人の閉塞感からくる悪しき国家主義と排外主義イデオロギーに警鐘をならしているものと受け止めたい。新藤兼人健在なり!

派手な戦闘シーンがないことによって、銃後から照射される厄災は逆にあの戦争のいまだに横たわる課題を鮮明にし続けている。

あのようなつつましく勤勉にいきていた農民(定造・友子)や:漁民(啓太)や庶民が皇国国家主義を受容し、なぜ戦争の担い手として反対も逃亡もせず戦地へ赴いたか。
映画のなかでは、100名のオッサン部隊が6名を残して94名が戦死するわけだが、100名の招集時に1回目、次のフィリピン戦線への60人の選で2回目、沖縄出撃と内地残留の人選で3回目、というように、かれらかすれば「くじ運」の良し悪しとして実存の契機が描かれている。

一回性でしかないかけがえのない人生のそれぞれが、「くじ運」でしかないのである。これが生死の分岐点では実感として庶民が受け止め得た事態であった。現在からはどのようにもこうした庶民の無知蒙昧を指摘も批判もできるだろうが、当時の庶民はそうでも考えなければすくわれなかったのである。新藤の優しさは、こうした庶民に寄り添い、イデオロギー的なアジテーションを一切加えていない。厭戦のセリフを吐かせていても、それは実際の庶民の実感でありイデオロギーではない。昨今のダメ監督が描く虚構された「公」への忠義--虚偽意識を無効化するに十分である。

にもかかわらず、やはりこうしたつつましやかな好人物たちが、積極的ではないにしろ、「お上」の赤紙に唯々諾々としたがって戦争の使命を「お国のため」と言い尽くたのはなぜなのか、という不思議である。

新藤は、この作品ではそれへの回答は直接何も語っていない。それはこれからの世代が考えろと言っているようにみえるが、しかし俺の提示した戦争という実像を必ず踏まえておけと言っていると受け止められる。

まさに現在のようなニヒリズムと排外主義が闊歩する時代に、新藤の放つ光芒である。それをまだ了解し、賞を与えて讃える人たちが少なからずいることにホッとするのである。

受賞
第23回東京国際映画祭審査員特別賞受賞
第25回キネマ旬報ベストテン作品賞
第35回アカデミー賞秀逸監督賞
第54回ブルーリボン賞監督賞
第66回毎日映画コンクール日本映画大賞