江里昭彦「大道寺将司句集についてのコラージュ」望月至高の『大道寺将司全句集』句集評への批評

六曜」二七号が大道寺将司全句集『棺一基』の特集を組んでいる。(2011年6月)。確定死刑囚としてずっと東京拘置所に収監されている大道寺将司は、「六曜」のメンバーのひとりである。

 特集のなかでは、望月至高の論考がすばらしい。『棺一基』はすでに、NHKETV特集朝日新聞で紹介されるなど破格の反響を呼んでいるが、望月の文章は、通りいっぺんの書評という儀礼を踏み超えて、俳句の方法論の本質にまで迫る洞察を示している。


 「言葉は経験である。彼が生活者としての経験を二十歳過ぎに切断されたままであるにも拘わらず、このリアリティーを保持していることに驚嘆する。獄舎の日常詠であり密室の中の空想なのだが、場所の限定を飛躍して迫るものがある。(中略)表現は脳で作られるわけだが、それには身体領域における感受が前提となる。彼の身体は拘禁され極めて微量な感受しかできないはずなのに、生のもつ普遍的なリアリティーに到達しえている。体験の量によってではなく偏に想像の純化によって、魂はどこへでも飛翔する能力を獲得した。」(傍点は江里)


文末に例示しておいた作品にみられるとおり、大道寺将司は有季定型という通念に従順である。しかし、そこには歳時記の表層的な豊富さはない。「体験の量によってではなく偏に想像の純化によって」言葉を吟味する苦闘が、季語をも、異様に濃密な詩語として使用する作家へと、大道寺を成長させたのだろう。実存の全重量でもって定型と向き合う姿勢といい、倫理が句作の発条と化していることといい、また思索と叙情の癒合をめざす方法といい、わたしは中村草田男の面影を彼に見てしまうのだ。大道寺将司は草田男俳句の認知されない庶子なのかもしれない。

 古文書をとりだすだすことになるけれど、「朝日ジャーナル」八七年二月十三日号に大道寺将司の文章が載っている。「戦後初めて政治犯として死刑が確定する見通しが強い」という認識のもと、編集部が依頼した原稿だろう。左翼用語を乱発する生硬で蕪雑なその一文は、読んでいて味気ないきもちがしてくる。しかるに、そんな言辞を操ってた人物の句集とは思えないくらい、『棺一基』における彫琢は美しい。

 
 棺一基四顧茫々と霞けり
 身のうちの虚空に懸る旱星
 時として思いの滾る寒茜
 あるじなき部屋の昏さに悴かめる
 いなびかりせんなき悔いのまた溢る
 夕焼けて囚われの身を肯ずる
  翅一枚遺して蝉の食はれけり
 持て余す悔みの嵩や寒に入る
 水底の屍照らすや夏の月

 

 
[註]
 ■江里昭彦論考は、「鬣(たてがみ)」44号の『二一世紀書評』所収。
 ■望月至高の大道寺将司句集評は、
   http://d.hatena.ne.jp/haigujin/20120616/1339858374