ネオファシズムとしてのオリンピックの楽しみ方

今朝ニュースで知って、最初のTweetがこのようなものだ。

「オリンピック東京開催決定のようだが、やるなら金儲けに利用を考えている人に対抗して、まともな利用の仕方を考えよう。一応世界のお祭りだから、無粋に反対はしないが、日本人の一体感だとか、空虚な中心化をあぶりだすことだ。願わくば政府が外国に突き上げられてフクシマ対策を本格化すること。」

オリンピックとフクシマは別だという考えも理解できる。理解はするが同調はできない。
なぜなら人間目の前に住処を追われ生活困難な無辜な民がいれば、見過ごして祭りへ駆けつける前に助けてから皆で参加しようやという考えの方が自然だと思うからだ。
クジラでもベーリング海峡でシャチに襲われ、半数近くのクジラの子供を亡くすが、近くでその攻防に出くわすと、見ず知らずのクジラ親子を助けるために一目散に突進してシャチ軍団と闘う。もちろん親とて危険であることに変わりない。しかもクジラは種類の違うものでも助け合うということだ。哺乳類の自然性とはそうした類性にあるからだ。

だが人間の作為性は、欲望を叶える為には傷ついた者を踏みつけてよいというイデオロギーを、様々な巧妙な理屈と意匠によって肯定する。それが現代社会だ。

確かに経済効果とかあることも事実だろう、それがではフクシマの40万人の避難民に還元されるのか、みこみみうすだし、安倍首相も明言しない。恐らく東京と地方の格差は益々開き、フクシマは汚染状態で東京は安全だ(竹田会長発言)という表象を世界中に刷り込むだろう。

オリンピックへ来た外人がフクシマを訪れ、フクシマは汚染状態になく、漏洩もないと口コミで世界に発信できることができるか?その可能性を追求した、フクシマの汚染鎮圧が先になければ、このオリンピックは失敗たと言っていい。
安倍首相は、460億円つぎ込むとは言ったが、鎮圧タスクフォースは相変わらず東電任せだ。

仮設住宅は依然として残りスラム化していく。

そして開催時期に、被曝被害者の病状が急増するだろう。
そのとき世界から隠しおうせるか?外国メディアは日本メディアほど隠蔽同調体質はない。
オリンピックのインフラ投資の裏で棄民は大きくニュースとなるだろう。

オリンピックを歓迎するとするなら、白人コンプレックスの日本エリートに、オリンピックよりフクシマは先にやらざる得ないというプレッシャーとなって欲しいものだ。

集団幻想の祝祭に向かって、個のリアルな不具合は呑み込まれ、個のリアルな不具合を訴える声を非難する善意のお祭り感情は、間違いなくネオファシズムである。
個の不具合を優先しろという声を叩き、排除しようとする言論は、間違いなくネオファシズムである。それは公共性の安定化とレベルアップという点で優先順位をつけられてはいけないものであるはずだ。
こういう、集団幻想の祝祭>個人の不具合、を優先させる熱狂は、歴史には形を変えて何度か現れる。そこは自覚した上で、オリンピックで、楽しむものと失うものと危険なもの、を冷静に見ておくことだ。