池田浩士講演録『ヴァイマル憲法がなぜナチズム支配を生んだのか?』第1部(2013,1,16土)

京都大学名誉教授・元京都精華大学教授池田浩士先生の人権協会大阪・兵庫支部主催の講演録(原本http://www.ki.rim.or.jp/~jclu_oh/kouen/2013-11-16_kiroku.shtml
池田先生はドイツ文学やファシズム研究の専門家です。
(注)池田先生本人に転載許可をいただいて掲載しています。著作権法上無断コピー・転載はご遠慮ください。

続編第2部はこちらhttp://d.hatena.ne.jp/haigujin/20150617/1434557881


はじめに――歴史と歴史認識を考える

こんにちは、池田浩士と申します。立ってるとかえって目ざわりだと思いますので、座って話をさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。皆様のお手元にA3の紙が2枚、1枚目はいわゆるレジュメで、これから話をさせていただく内容をそのポイントみたいなものを並べてあるわけですが、それからもう1枚のほうはその話の中で具体的な数値とか事実とか、そういうものを見ながらご一緒に考えたいと思いましたので、資料というものを1枚つけさせていただきました。

資料の最初にAとして用語メモというのがありますが、これは後で必要があればここに目を向けていただきたいと思いますが、差し当たりはBの資料のほうがいわゆるデータになっておりますので、話の途中で「?をごらんください」というふうに申し上げるかもしれませんが、そのときはお気が向きましたらこちらを見ていただければありがたいと思います。

この数カ月というより、むしろもう何十年もと言ってもいいわけですけれども、一番最初に私自身が意識して考えたいと思ったのは、1982年ごろでした。日本の教科書が文部省の検定によって、あの大東亜戦争侵略戦争と記述した教科書があったのを、検閲官が「侵略」という言葉を「進出」に書きかえさせた。それで、アジアのさまざまな国々から日本は自分たちの歴史をいわば糊塗し隠蔽しようとしているという批判が一斉に寄せられた、たしか1982年だったと思います。「教科書問題」というふうに言われたことがありましたが、そのことによって、日本の国家の運営者たち、政権担当政党である自民党を始めとする、そしてその彼らをしっかりと支えている高級官僚たちが、歴史認識をねじ曲げようとしているんだということが、全世界に明らかになったわけです。

そのとき以来、ずっと日本という国家が、とりわけ日本国家が名づけた大東亜戦争という支那事変以後の敗戦に至るまでの戦争で害を与えたという言葉では済まないようなことをしてきた、あの戦争というのを侵略戦争ではなかったというふうに言いくるめる、それがアジアの国々からの批判にもかかわらず本心では全く変わっていない。現在の社民党になるわけですが、村山政権というのができたときに初めて村山首相がそれをアジアの諸国に対して詫びたわけですけれども、いまの総理大臣も村山談話を踏襲していると言いながら、実はやってることは全く正反対のことをやっているという現実に私たちはいま生きているわけですね。

皆様がたが恐らくいま最も焦眉の関心と危機意識をお持ちの「特定秘密保護法」というものも、私自身はその脈絡の上できっちりと進められているというふうに思わざるを得ないわけですが、きょうの私なりの問題提起をさせていただくとすれば、そういう現実の中に生きる私たち――私たちというのはおこがましいので、私に対する自問、自分に対する問いとして話をまずさせていただきたいと思います。

じつは、私自身は大学では、まったく何の役にも立たないドイツ文学というものを専攻したわけですが、60年安保闘争が始まった年の1959年に大学へ入ったので、戦後民主主義はまだ生きていた。60年安保闘争のときも、戦後民主主義を守れというそういうふうな共通の思いがあったわけです。

ドイツの歴史に関しましても、戦後の東ドイツはちょっといま棚上げするとして、日本と同じ資本主義国の西ドイツでは、ヒトラー時代は間違っていた、戦後の民主主義ドイツを守っていかなければいけないという、あの右翼にほかならないアデナウアーというふうな首相でさえ、やはり戦後民主主義は守るという、そういうふうな共通の思いが、同じ敗戦国であり、同じファシズムを体験した歴史を持っているドイツでも日本でも、共通のこれは思いであったと思うんです。

私自身は、そういう状況の中で、何ということか、初めからもう悪ということ、悪いことが確定していると考えられていたナチス時代のドイツの文化や文学の勉強を、大学時代に始めました。それがいま、まったく役に立たないものだったはずの、過去の文字どおり間違った、100%間違ったどころか、マイナスの価値しか持っていないナチス時代のことを、いま皆様と一緒に取り上げて考える時代が来るとは、じつは、まったく夢にも思っていませんでした。わずか、わずかというと若いかたに笑われますけども、わずか半世紀でそういうふうに変わってしまったというのは、非常に恐ろしいことだと思っています。レジュメの「はじめに」というところに、「歴史と歴史認識を考える」というタイトルを書かせていただきましたが、この歴史認識という言葉は、現在は中国や韓国から日本の歴史認識を問われるときに使われていますので、その韓国や中国がどういう思いで言っているかは私自身は責任を持ってお話しすることはできないので、私自身なりにこの歴史認識という言葉について考えるところから、まず始めていきたいと思います。

歴史というのがありますね。英語でヒストリー(history)と言いますけども、ご存じのとおりストーリー(story)、物語というのと関連した言葉ですよね。ドイツ語ではゲシヒテ(Geschichte)と言いますが、ゲシヒテというのも物語という意味です。ドイツ語だともっとはっきりするんですが、ゲシヒテというのはこれは名詞形なんですけども、このゲシヒテという言葉は動詞から生まれた派生語です。言葉には動詞から生まれた形容詞とか、動詞から生まれた名詞とか、逆に名詞から生まれた動詞とかさまざまな単語があるわけですけども、ドイツ語のゲシヒテというのは物語であり歴史であるんですけども、もともと動詞のゲシェーエン(geschehen)、起こるとか生じる、出来事が起こることですね、そういう意味のゲシェーエンという動詞から生まれた名詞なんですね。したがって、ゲシヒテという言葉には、基本的には出来事という意味があります。それから物語という意味があります。それから、歴史という意味があります。いま申し上げた順番で人間の歴史の中で意味が確立してきた、だから最初は出来事のことです。それを、きのうなこんなことがあったんだよと人に語って聞かせると物語になりますよね。それから、さらにそれがずっと時間系列の中で定着させられていって共有されるようになると、今度は歴史になっていくわけですね。

私たちは、現実に日常生活を生きている中で、自分の行為も含めてさまざまな出来事を体験しながら生きているわけですね。これがいまの瞬間はまだ歴史になっていませんけれども、自分が体験した例えば3年前のことはもう歴史的な過去になり得るわけですよね。つまり、自分が体験して、私はつむぐという言葉が余り好きではないのでつくり出してきたといいますか、自分が共犯者の一人としてつくり出してしまった既成事実というか、そういうものが歴史となって、これは要するに体験によって生み出されたものが時間系列の中で過去へとずっと遠のいていく中で歴史になっていくわけです。したがって、私たちは自分が生きている中で否でも応でも歴史をつくりだしながら生きているわけですね。ですから、しばしば「体験しないとわからないよ」という言葉がすごく大きな重みをもって説教されることがあるんですが、私はそうではないと思うんですね。体験したものには、自分が体験した現実というものが見えているとは限らないどころか、見えない場合が非常に多いというふうに思っています。

私自身は、もう案内チラシにも書いていただいているので隠すことも何もないんですが、1940年生まれです。紀元2600年、つまりその年1940年より2600前に神武天皇なる人物が大和橿原に大和朝廷を開いた、2月11日に、というのが紀元の1年ですけども、したがって2599年前に大和朝廷が開かれて、2600年目が日本では1940年で、紀元2600年と言われたんですね。国家的な奉祝行事が1年間を通じてさまざまに行なわれたわけですけども、じつはこの紀元2600年というのは、ちょっと脱線しますと現在に至るまで日本という国家、大日本帝国という名前になったこともありますが、その日本という国家というものがまだ国家ということを人々が意識する以前からずっと見てみても、いわゆる国力、国の力というのが一番頂点に達した時期だったんですね、紀元2600年、つまり1940年。

したがってその翌年はその余勢をかってアメリカとやっても勝てるというので戦争に、対米英戦に踏み切っていくわけですけども、じつはそのころの、つまり1940年の時点での日本のエネルギーというのはもちろん原子力ではありませんよね。石油でもありませんね。石炭です。ほとんど唯一石炭です。ようやく1905年の日露戦争以後、オイルを燃料とする軍艦が日本でも開発され始めますが、まだ石炭船というのはいっぱいあったし、列車はご存じのとおり石炭エネルギーで走る蒸気機関車に引っ張られていたわけです。あらゆる工業、そして戦争もまた石炭がなければできない時代だったんですね、1940年というのは。

ところが、統計資料を調べてみますと、日本の内地、内地というのは日本列島です、植民地を別とした。内地における石炭生産量は1940年の5,631万トンというこれが歴史上最高です。戦後復興の中でも炭鉱が最終的に消滅するまで二度とこの5,631万トンという年間採炭量は回復できませんでした。このことが何を意味しているかというと、1941年からは石炭の生産が下降をたどっていくんです。それなのに戦争を始めてしまったんですよね。だから、最初から、始めた時点から日本は負けることは確定していたというふうに、エネルギーの面からみると言うことができますが、とにかくそういう年だったんです、1940年というのは。

それで、私は1940年にこれは偶然、私の責任ではないので偶然なんですが生まれたんですけども、戦後は1947年の4月に小学校に入学しました。私ごとなんですけれども、歴史体験のことですのでお許しください。1947年4月に小学校に入学するということは何を意味しているかというと、1年前に入学した人が墨塗りをさせられて古い教科書をそうやって墨塗りによって、不都合なところを塗りつぶして使ったのに、47年の1年生からは新しい戦後民主主義の教科書を4月から使ったという世代です。もう皆さんは若いかたもここにはおられますので、昔話みたいに思われても仕方がないんですけども、古い世代の方はご記憶がおありでしょうが、戦後民主主義教育までの1904年以後四十数年間、日本は国定教科書でした。つまり、国が決めた、ただ一つの教科書を、例えば小学校でいうと、全国のあらゆる小学校の同じ学年のすべての生徒が使わされたということです。国定教科書、国が決めた教科書、それをいま自民党がやりたいということですけども、特に最初にまず「道徳」でそれをやろうというわけですけれども、そういう国定教科書だったので、おとなになってからも、小学校1年の国語の第1課はどういう言葉で国語を習い始めたかということを言うと、あっ、それは私より幾つ上ですねとか、私と同じ世代ですねということがわかったんですね。戦時下では、兵隊とか鉄砲とかいうところから始まったのもあるわけです。

ところが、私の場合はこれをはっきり覚えているんですが、小学校の国語の1年生の教科書で何を習ったかはまったく記憶にないのです。まだそのころ国定教科書です。したがって、全国一斉に使ったわけですけど、まったく記憶がなかったんですね。何だろう、親から言われても年上の先輩から言われても、おまえ小学校でどういうところから習ったと言われても全然覚えてないんです。小学校の教科書。私の3つ下の連れあいは「しろこいしろこい」だったと、犬です。というふうに覚えているんです。私は全然覚えてないんです。

ところが、あるとき長野県の松本の松本城の後ろに開智学校という古い1876年に、つまり明治維新から9年目につくられた小学校が、松本城の後ろにそのまま移築されて静態保存されてるんですが、それが教育資料館になっているんです。そこの2階にずっと歴代の国定教科書が展示してあるんですね。私は覚えてないので、そうだ、この機会に絶対思い出そうと思って行きましたら、愕然としたんですね。物すごくよく知っているものだったんです。「おはなをかざるみんないいこ」という歌として覚えてるんです。そのことが、ちゃんとそこの説明に書いてあるんです。戦後民主主義の第1回生は、国語の第1課を歌で習いました、と展示されたその教科書の説明が書いてあるんですよ。私自身は国語の教科書の第1課の文章だという意識が全くなくて、歌としてはこれ、3番まで歌えるんですが、覚えてるんですね。

その3番が問題で、北村小夜さんという元教員の女性、私より年上のおばあさんから私は教えていただいたんですが、なぜ3番が問題か。最初が「おはなをかざるみんないいこ」、2番は「なかよしこよしみんないいこ」。単元の名前は「みんないいこ」なんですが、3番目が「きれいなことばみんないいこ」なんです。北村小夜さんというその私よりも先輩の女性のかたは、「戦後民主主義は出発点から間違っていた」と、この教科書から言われるんです。ついきのうまで、例えば沖縄で「方言札」を子どもたちにぶら下げさせて、「正しい日本語を覚えろ」、「きれいな言葉を話せ」といって、沖縄の言葉は「きたない言葉だ」といって、沖縄のネイティヴの言葉を奪ってきたんです。それを忘れて、「きれいなことば」とはなにごとか、と北村小夜さんは言われました。

私もずっといろんな小説を読んでいて感じることですけれども、朝鮮半島を支配していた日本人が、日本から捨てられて朝鮮に移民に行って、ようやくそこで生きる道を見出した日本人が、朝鮮人を見下しながらどういうふうなことを日常的に言っていたか。日本人からし朝鮮人に対する一番の褒め言葉は、例えば朝鮮人の友達がいますね、あるいは子どもがいる、「君はきれいな日本語ですね」というんです。これが、日本人が朝鮮人を褒めるときの最大のほめ言葉だったんです。こういうのは、当時の日本人が書いた小説やエッセイにいっぱい出てきます。したがって、北村さんが言われるように、戦後民主主義の1回生が習った国語、歌で習った国語の教科書というのは、「きれいなことばみんないいこ」という、その「きれいなことば」というのがどういう歴史を持っているか、まったく歴史に対する反省がないということですね。そういうふうなことを教えていただきました。

これが、じつは私は歴史認識の一つの具体例だと思います。北村小夜さんは私よりも15ぐらい年上ですから、その教科書を私が小学1年で使ったころはもう既に成人だったし、直接その教科書を使った体験者ではありません。妹や弟がいて、その教科書を見たことがあるかもしれないとしても、自分が実体験としてその教科書を使ったわけではない。それから彼女は教員になりましたから、その自分の仕事との関連で戦後教育の教科書のことを、あとから調べられたのだと思います。そして、その「きれいなことばみんないいこ」というのが、いかに自分たちの歴史に対する責任をないがしろにしているか、つまり歴史認識がいかに欠如しているかということに気づかれたんだと思うんですね、多分。自分自身が直接その現場で体験したわけではない。でも、その後ずっと戦後の歴史を生きていくなかで北村小夜さんは、あの戦後民主主義の国語の教科書の第1課は文字どおりの歴史認識の欠如、これは北村さんがそういう言葉を言われたんじゃないんですが、歴史認識の欠如だということに気づかれた。これがつまり北村さんの歴史認識だと思うんです。

つまり、現場で体験している人が現場をしっかりと見ることができているというふうなことは言えないわけです。あとの時代がその現場の意味を発見していく、再発見とさえ言わない、新しく発見していく、これが歴史認識ですね。そうすると歴史というのは2度生きられることになります。歴史認識によって。つまり、じかの歴史を体験した現場で生きた人が見過ごしたり、無意識であったり、犯してしまった過ちであったりというものを、後から来たものが発見していくことによって、歴史はあらためて体験され、それによって歴史の意味が新しく変わっていくわけですよね。生きるということは、今の現実を生きると同時に過去の歴史的現実を生きなおすことでもあるわけですね。それをやはり私たちは今この現場を生きながらしなければならない。

私には何の責任もありません、あの大東亜戦争といわれた戦争に。私は敗戦のときに満5つでした。5つのガキに、おまえは日本人だからあの戦争に責任があったと言われたら、私は断固拒否したいと思います。そういう意味では、敗戦当時数え年でも13歳であった明仁にも、私はその時点で戦争責任はなかったと思います。ただし、明仁の場合ちょっと問題がありまして、日本の皇族は男であれば18歳になると自動的に軍隊の将校になることになっていました。特に皇太子の場合は満10歳でそうなります。つまり、将校というのは、海軍では士官と呼ばれましたが、百姓や工場労働者が徴兵されていっても一生なることがなることができない、よっぽど例外がないかぎり、雲の上の人です、軍隊では。それなのに10歳の男のガキが、例えば明仁の場合は大日本帝国海軍少尉であり、陸軍少尉であったんです。普通の人間は、普通の人間というのはこの人間、名字(みょうじ)のある普通の人間は、海軍か陸軍かどちらかに突っ込まれるわけですね。ところが、明仁の場合は海軍少尉であると同時に陸軍少尉でした。こんなことは普通の人間ではあり得ないことです。

したがって、彼は社会的責任が既にあったんですが、これはだけど、お父ちゃん僕も軍人になりたい、軍人にしてと彼が言ったんではないわけですから、私は敗戦当時12歳の少年に責任を問うのは酷だと思うんです。彼があそこに生まれてしまった、これは雅子とか美智子とか紀子とかいう女性とは全然違います。彼女たちは自分で決断して皇族になったわけです。もちろん、とてつもない強圧に屈してかもしれませんが、とにかく成人に達してから皇族になったわけです。しかし、明仁は生まれてしまったんです、そこに。ですから、明仁の責任を私は問うことはできないと思います。にもかかわらず、その後、明仁は全く無意識のうちに生きてしまった12年に何倍もするぐらいの、いまや7倍近くするくらいの年月をその後生きたわけです。だから、彼はしっかりと、自分が体験したもう過ぎ去ってしまった歴史に対する認識を、きっちりと獲得しなければならなかった。したがって、13歳の彼に戦争責任があると言えなくてもその後の彼には戦後責任があるし、戦後責任は戦争責任を新たに発見し追体験することにほかならない。だから、明仁にも私にも戦争責任はあるというふうに思っています

つまり、歴史認識というのはそういうことではないかと思うんですね。だから、私は体験しなかったから言う権利はない、資格がない、じゃなくて体験しなかった者こそ言う義務と責任があるというふうに私は考えるべきだろうと思っています。

第1部

1. なんという時代に私たちは投げ込まれたのだろう!

それにしても、歴史認識と言えばすぐに皆さんが思い浮かべられる麻生という人を別にしても、すぐに多分思い浮かべられる人物があります。特に大阪では切実ですよね。橋下という、「ハシシタ」と私は言うんですけども、「ハシゲ」というふうに呼ぶ人もいるけれども、私は社会的な地位と権力をもった人には悪口を言ってもいいと思っていますので、私はハシシタと言いますけれども、ハシシタと私が言いたい橋下という人物にせよ、そして天皇に直訴状を渡すなんてことを本気で考えたんですかね、そういうことをやって、そこまではお愛きょうだとしても、「陛下にお詫びするために毎日二重橋の前に行って頭を下げてます」というふうな政治家が、私たちのこの国家社会を運営する一員として存在している時代です。

きょう、多分私に話をしろということが出てきた直接のきっかけであったのは、恐らく麻生の発言だと思いますが、そういうふうな政治家が私たちのこの国家社会を運営して、そこから多大な利権を吸い取っているという現実の中に今私たちは生きているわけで、このひどい現実は皆がこれがひどいこれがひどいと言い始めればきょう中に終わらないくらいなので、省略して先に進みたいと思うんですけども、私は言いたいんですね、こんな現実は私の責任ではないと。もちろん、私は立派な年をしたじいさんですので、責任がないとは言わないんですが、しかしそれでも、私の責任ではないと言いたい――それはなぜかというと、お手元の資料の?をごらんになってください。

2013年7月21日に行なわれた、ついこの前の国政選挙、参議院議員選挙ですけども、、ほかの党には申しわけないんですが、政府与党の責任をまず追及したいと思うので、自民党公明党だけの得票率を見てみました。まず、投票率が52.61%ですね。こんな投票率で有効な選挙と言えるのかと思いますが、これはちょっと置いておいて、自民党公明党を見てみますと、比例区では自民党は得票率34.68%でした。つまり投票総数のうちのですね。そして、獲得した議席比例区に割り当てられている48議席のうちの18、つまり48分の18を獲得しました。公明党比例区で14.22%の票を獲得して、議席数は48のうちの7議席を獲得しました。一方、小選挙区では自民党小選挙区のために投じられた票のうちの42.74%を獲得して、議席はこの小選挙区に割り当てられた73議席のうちの47議席を獲得しました。公明党小選挙区の票を5.13%獲得して、73議席のうちの11議席を獲得しました。

ちょっとこまかいことを言いますが、自民党比例区で34.68%の得票率でを獲得した48分の18議席というのは、その議席中の何%かというと37.5%です。公明党が獲得した7議席は、48議席のうちで14.6%です。したがって、得票率と獲得議席数はほぼ見合っています、比例区では。自民党はちょっと得してるんですが、これは大きいほうが得するので、自民党は34.68%の票を獲得して37.5%の議席を得た。公明党は14.22%の得票を得て14.6%の議席、これはほとんどぴったりですよね。比例区ではこうでした。では小選挙区ではどうか。自民党小選挙区での得票率は42.74%ですが、73議席中47議席を獲得したということは、議席の64.4%を獲得したのです。なんと得票率の1.5倍ですね。公明党に至っては5.13%の票を獲得していながら議席では15.1%、つまり3倍ですよ、得票率の。こういう選挙制度の中で、私がいくら一生懸命投票しても私の票はすべて死に票になるわけですから、私には責任はありませんと言いたいわけです。

まさに、こういう制度をつくってきたのは自民長期政権ですね。そして、その使い走りをすることによって権力と利権のおこぼれにあずかっている公明党です。ここに創価学会もしくは池田会長派の日蓮正宗の方がおられたら、政治の話ですからお許しください。こういうふうな選挙制度がある限り、私の意思は反映されない、全く。したがって、私にはこの国の政治がこんなふうになっている、このことに全く責任はありません。しかも、大阪の人々が好きこのんで選んだ橋下とか松井とかいう人に対する責任も、私には一切ありませんとこう言いたいわけですね。

これは、いま自分が生きている現時点での歴史をつくりだしているという観点だけから歴史を見たとき、私はそれに加担していないというだけのことです。しかし、今まで私が生きてくる中で、私はこういうふうな今の日本の現実が生まれてしまうことを許してきたわけですね。例えば、自民党の長期政権がこういう選挙制度の改悪をたび重ねてやり続けてきたのを私は阻止することをしなかったわけです。したがって、私が生きてきた過去の歴史というのをもう一度見つめ直すときに、私には責任が生まれてくるというふうに思わざるを得ないわけです。

そういうことを考えるにつけても、やはりこういう今のような現実、これは私はそのときいなかったけれども、何か自分が知っている範囲ではあったよなということを、やはり私は考えざるを得ません。それは、このところ多くの人が指摘しておられるとおり、かつて80年も昔にドイツで生まれてしまった現実と非常に似ている、あれを思い起こさせるということから、やはり目を転じることができないわけです。逆に言えば、そういう過去の歴史をしっかり見つめてこなかった結果として、あるいは「よそごと」としてきたために、自分自身を見つめることもできぬまま、今の現実があるのではないかということです。

2. 歴史はくりかえさない、だがこれは、いつかどこかにあった現実だ!

歴史はくりかえさない、これは歴史がくりかえすという言葉が先なんですよね。歴史はくりかえすという格言があったのに対して、いやいや歴史はくりかえさないと言われて、私もずうっとそんなもの歴史がくりかえすわけはないというふうに言いたいので、歴史はくりかえさないというふうに言いたいわけですけども、本当に歴史はくりかえさないのか、あるいは歴史はくりかえさないと私たちが言うことができるとしたら、どういう条件が要るのかということも、きょうは考えていきたいと思いますので、差し当たりくりかしているのかどうかは別として、どこかで見たような既視感といいますか、デジャヴュといいますか、既に見たことがある光景、そういうものとしてナチス時代の入り口あたりのことを振り返ってみたいと思います。

ナチス時代というのは、1933年の1月30日に始まりました。ヒトラー内閣が成立して、ナチスが言うところの「第三帝国」が始まったのが1933年1月30日ですから、ちょうど今年が80周年になるわけですね。

さて、それに先立つ時代を歴史の中では世界共通でと言ってもいいんでしょう、ヴァイマル共和国時代とかヴァイマル時代というふうに呼んでいます。日本ではワイマールと伸ばされる表記がずっと続いてきましたが、これは伸ばしません。ドイツ語では長音と短音、長い音と短い音は区別しないと誤解が生まれるので長音短音は割と厳密なのですが、最後の ‐r (エル)というのは、英語でfather、mother、brother、sisterというのは皆erで終わるのにアーと流しますよね。それと同じようにドイツ語でもだんだんだらしがなくなって「ヴァイマハ」とのどの奥で言うようになって、「ハ」、さらには「ア」になってしまったんで伸ばしてるように聞こえるんですが、実はヴァイマル、ヴァイマハ、ヴァイマアというふうに短いんですね。それはどうでもいいんですけども。

その「ヴァイマル時代」という言葉を聞いたことがおありの方は、セットとして「ヴァイマル憲法」という言葉も聞いたことがおありかもしれません。つまり、ヴァイマル時代というのが歴史に残る時代として記憶されているのは、ヴァイマル憲法という憲法を持っていて、その憲法が画期的なものだったからですね。さっき言いましたヒトラーが権力をとったのは1933年1月30日で、この日をもって事実上ヴァイマル時代は終わるわけですが、では、ヴァイマル時代が始まったのはいつかと言えば、正式には1919年の8月11日です。これが、ヴァイマル憲法が施行された日です。憲法が制定され施行された日が19年の8月なんですけども、実はその前年、1918年の11月、きょうから95年前の先週、ちょうど一週間前の1918年11月9日、そのとき土曜日だかどうだか私は覚えてませんが、きょうは11月16日ですから、要するに95年前の先週のきょう、ドイツ革命が起こって皇帝一族が列車でオランダへ亡命しました。ドイツ革命によって、事実上帝政が打倒された。軍部は敗戦交渉に移ります。したがって、これが事実上敗戦の日なんですね。だから、ヴァイマル共和国を考えるときこの日から始まったというふうに言ってもいいと思うんです。ドイツ革命によって新しい時代が始まった。

それまでは、「ドイツ帝国」です。カイザーつまり皇帝がいたわけです。ご年配の方でももうほとんどご存じないでしょうが、カイゼル髭というものが昔あったんですね。カイザーというふうにさっきのヴァイマルと同じですが、カイザーというふうに流してしまわないで昔はカイゼルと言ったんですね。そのカイゼル髭というのがあって、こういうふうに鼻の下の髭の左右の両端が大きく上へはね上がった口髭です。ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世はこういう髭を生やしてるんですね。そういうカイゼル、皇帝が一家とともにオランダへ亡命してドイツ帝国が崩壊しました。ここから新しい時代が始まるわけです。

さて、このヴァイマル時代の誕生から、後にナチ党、つまり「国民社会主義ドイツ労働者党」という党を率いたアードルフ・ヒトラーという政治家が政権を獲得して、事実上ヴァイマル共和体制に終止符を打つまでの間に、国会議員選挙が9回ありました。総選挙です。日本でいうと衆議院議員選挙です。この国会選挙の9回のうちで、ナチ党が国政に登場してから後の選挙が、この資料の?のとおり、6回ありました。それ以前の3回は、敗戦の翌年の、1919年1月19日に最初に行われた選挙と、翌年20年6月6日に第2回。それから、24年5月4日に第3回です。

この第3回までは、ナチ党は存在していなかったかもしくは南ドイツのミュンヒェンの地方政党にすぎなかった。つまり、維新の会と同じなんです。地方政党にすぎなかった。したがって、ミュンヒェンを中心とするバイエルン州バイエルンビールのバイエルンですね。バイエルン州の州議会ではナチ党は議席を獲得していたのですが、国会選挙には出られなかった。詳しい経緯は省略しますが、1924年の12月7日の選挙から、つまりもう敗戦後のヴァイマル体制ができてから5年以上あとになってから、ナチ党が国会に乗り出してきます。

資料?のとおり、24年12月7日の選挙の投票率は78.8%、議席総数493のうちナチ党は14議席を獲得しました。投票総数の中で占める得票率は、3.0%でした。社会民主党、これは現在の社民党の手本ですけど、社会民主党が131議席、得票率が26.0%。共産党は45議席、8.9%の得票率。27、28年、30年と、どの選挙でも、その投票率は、日本の選挙が一体有効なのかどうかと思わざるを得ないぐらい、高い投票率ですよね。70%代後半から80%代、最後にはもう90%近い投票率です。

次に、議席総数というのがあります。これちょっと見ていただいたらわかるとおり、選挙ごとに議席総数が違います。これ日本では考えられないことですね。日本では、衆議院の定数は幾つでというふうに、初めからもう選挙が始まる前から決まっているんですが、ヴァイマル時代のドイツでは選挙ごとに開票が終わるまでわかりません。議席総数が変動します。なぜかというと、これが物すごく大事なことなのですね、ヴァイマル共和制にとって。

ヴァイマル共和国時代の選挙は政党単位で投票します。したがって、現在の日本の比例区と同じです。しかも全国単一、全国が一選挙区で、すべて比例のみです。政党ごとに投票します。細かいことを言いますと、政党に番号をつけます。今回の選挙は共産党1番、ナチ党2番、社会民主党3番、それから中央党4番とかですね。そういうふうにヴァイマル時代はいわゆる小政党がたくさんあって、20ぐらいの政党が国会選挙に出ました。したがって、その政党に全部番号が割り振られて、この番号は選挙ごとにローテーションで違ってくるようになります。今回共産党が1番だったら、次は共産党は19番とか、それはどうでもいいんですが、要するにそうやって、投票者は全部数字で、番号で投票します。そして、したがって今回9番が共産党だとすると、開票するときに9番が何票入っているかで得票数が決まっていくんですが、6万票を一つの政党が獲得するごとに、その政党に1議席が割り振られます。したがって、12万票になったら2議席になるというふうに6の倍数です。したがって、投票総数とそれから6万票を獲得し得た政党が幾つあるかで数が選挙のたびごとにに変わってきますよね。1回ごとにだんだん人口が増えたり、投票率に変動があったりしますから、こうやって1924年の総選挙では議席総数が493だったのが、最後の1933年には647議席になっていったわけですね。

さて、これほど公平な選挙は私はちょっとないんじゃないかなと思います。全国が単一の比例代表制で、一つの政党が6万票を獲得すれば1議席であると。したがって私はヴァイマル時代には民意が恐らく考えられる限り、最大限反映されていたということができると思います。しかも、この投票率ですから。こういうふうな文字どおり初歩的なといってもいい議会制民主主義のルールの中で、ナチ党はついに第1党になり政権与党になっていったわけです。

先ほど言いましたように、1933年の1月30日午前11時15分なんですけども、大統領によってヒトラーは首相に任命されたので、33年1月30日をもってヴァイマル時代は終わりました。したがって、この最後の選挙、1933年3月5日の選挙はナチス時代になってからですが、全て今までのルールで行なわれた選挙です。したがって、ヴァイマル時代のルールに従って行なわれた選挙です。あの物議をかもした麻生発言の言うとおり、「ヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って出てきた」、「ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ」というのはまったくそのとおりであるわけです。では、具体的には、その「多数を握って」というのはどういうことだったのか。資料?に示した投票率やナチ党の得票率やあるいは獲得議席数を見ていただければわかるとおり、1932年11月6日が、ヒトラーが首相になる前の最後の選挙です。1933年1月30日ががヒトラーが首相になった日ですから。その最後の選挙でナチ党は総数584のうち196議席をとって得票率は33.1%です。

ということは、投票者のちょうど3分の1がナチスに投票したということです。したがって、過半数議席ではないし、得票率も過半数ではありません。有権者の中から8割が投票したこの選挙で、3分の1の投票者がナチ党に票を投じたわけです。自分を入れて11人の内閣の構成員のうち、ヒトラー内閣は首相であるヒトラーを別とすれば、2人の大臣しか占めることができなかった。だから、少数与党であるどころか少数の内閣、ナチ党が圧倒的に少数の内閣でした。

ただし、ここには法律関係、法曹関係の方がたくさんおられると思いますが、自分以外の2人の閣僚をヒトラーはしっかりと選びました。1人は無任所相つまり遊撃手ショートですね。無任所相、つまり特定の担当を持たない大臣を1人つくりました。この人は、プロイセン州、首都ベルリンを含むプロイセン州の首相、日本で言えば知事ですが、ドイツは地方の州が首相を持ってますので、そのプロイセン州首相のゲーリングという空軍大将、ヒトラーの右腕だった人を無任所相として、つまりこれから重要な課題が浮上してくるに違いないから、そのときこれを充てるために特定の担当を持たない大臣として、大臣ポストを1つとった。

もう1人は内務大臣。内務大臣というのは、若い方は外務大臣と違って国内のことを担当するのかと思われるかもしれませんが、文字どおり特定秘密保護法の担当者になるやつです。国家の治安担当の大臣で、日本でも「内務官僚」といいますが、昔の特高警察を仕切っていた内務官僚を手下に持つ一番トップのやつが、要するに内務大臣なんですね。つまり、治安体制をしっかりと把握する、これをナチ党からとりました。したがって、治安関係はもうこれでナチ党が握ったようなものですね。こうやって少数与党内閣として出発したヒトラーは、これではしかし前途多難だということで、すぐに議会を解散しました。そして、今度こそ過半数をとるぞという意気込みのもとに2カ月後の1933年、政権を獲得してから2カ月後の33年3月5日に国会選挙を行ないました。

今度は、選挙制度そのものはヴァイマル共和国の、間接民主主義としてはもう考えられる限り民主主義的な議会制民主主義のルールにのっとった選挙だったとしても、すでに治安関係を握ってますし、突撃隊とか親衛隊というナチ党の暴力装置を持っていますから、それこそそういう威嚇のもとに選挙をやったわけですね。それなのにナチ党は過半数をとれなかった。43.9%の得票しかとれませんでした。

3. なぜ有権者ナチスに票を投じたのか

さあ、ここでどういうことを考えなければいけないのだろう? 選挙制度は極めて民主主義的であった。でも、その選挙制度の中でヒトラーのナチ党が選ばれた。しかし、それは過半数の国民の支持を得たものではなかった。政権獲得時には、投票者の3分の1しか支持していなかった。にもかかわらず、この後の12年間のナチス支配体制の中では、ナチ党は、後で改めてお話しますがぐんぐんと支持率を高めていきました。したがって、ドイツ国民としては、何でもっと早くからヒトラーナチスに投票しておかなかったのだろう、おれはバカだったなと思う人はいっぱいいたでしょうね、恐らく。いただろうけども、たった3分の1しかとってない首相がと言って不平をならす人は、圧倒的少数にすぎなかった。

私たちが戦後民主主義の中で、ドイツでも日本でも、ナチ党独裁の時代であり恐怖の時代であったと聞いてきたナチス時代の12年半の間に、歴然たる政治犯、つまりヒトラーの暗殺とかナチ体制の転覆とかというものを意図したというふうに認定されて、そういう政治犯のための特別の「民族裁判所」という、日本のかつての「大審院」での「大逆罪」裁判と同じ1回限りの裁判で刑が確定して、死刑の判決がおりたらそのままギロチンに直行という、そういう死刑制度があったわけです。いわゆる国事犯、国の治安を脅かす政治犯を裁くこの裁判所で死刑を宣告され処刑された人は、1934年にそれが設置されてからドイツの敗戦までに、約5,200人でした。そのうち半数はドイツによる占領地域などの抵抗者で、ドイツ人の処刑者は約2,500人です。これを私は少ないと言っているんじゃないですよ。多いと言ってるんでもないんです。一人でも処刑されてはいけないというのが基本です。しかし、ドイツの人口は当初6,400万人。オーストリアを1938年に併合した後に8,500万人ぐらいになります。8,500万人の国民の中で歴然たる政治犯という名目で処刑、ギロチンによって――それから例外的に絞首刑になった人もいますが――「正規の裁判」を経て処刑されたドイツ人は2,500人です。何%でしょうか。つまり、そのくらいしか反対の声を自分の命をかけて挙げる人はいなかったんですね。一人でも殺されてはいけないということは原則です、これは。

ヒトラーナチスに対する支持は、政権獲得後、時を経るにつれてどんどん高まっていきました。それどころか、さらに驚くべきことに、実は戦後――戦後の「東ドイツ」は置いておきます。東ドイツはひところまでの日本共産党と同じで、初めから戦争に反対して一貫して闘ったのは共産党だけだった、自分たちだけがナチスに抵抗してきたという神話をふりまきますから、戦後はソ連の傘のもとにかつての共産党社会主義統一党の中核になったわけですが、その東ドイツはちょっと別として、日本と同じ資本主義の道を戦後に歩んできた西ドイツだけに限ると――戦後のドイツでは、学校の教科書にも「ナチス時代にはドイツの国家はこんな悪いことをした、ユダヤ人に対しても許せないことをやった」と書いてあって、学校の教育現場でもきちんと過去の罪を教えている、と日本でも伝えられてきましたね。

ところが、私が、えっ!と思ったのは、1970年代に日本の赤軍連合赤軍、その他の今ではもうこんな言葉はほとんどないんですが、「過激派」の若者たち、年寄りもいましたが、過激派が活躍というと語弊がありますね、活動を盛んにしていたころ、西ドイツでも同じように過激派、新左翼と呼ばれたグループから出てきた過激派の人たち、これを西ドイツ政府は「テロリスト」という極めて名誉ある名前を戦後社会で初めてこの若者たちに冠したわけですが、そのテロリストと呼ばれた若者たちの一人が書いたものを読んで、私はびっくり仰天したんですね。私とちょうど同じぐらいのかつての若者テロリストが、自分はなぜ西ドイツ赤軍に入ったのかということを書いています。「それは、父親たちの世代があのナチス時代の犯罪の責任をとってこなかったからだ。だから息子である私たちがその責任をとらなければならないと考えて、西ドイツ赤軍に入った」とちゃんとしっかりと書いています。つまり、戦後ドイツが賠償責任を果たしたのは、シオニズムイスラエルと結びついているユダヤ人たちに対してです。

例えば、シンティ・ロマ、つまり日本でも「ジプシー」と呼ばれる少数民族に対しても、50万人以上殺しておきながら何一つ賠償責任を果たしていません、ドイツは。つまり、ドイツでも、「悪かったのはナチスの一派である、ドイツ国民はだまされたんだ」ということになりました。日本と同じです。軍部と大資本が悪かったんだ。それに気がついたのは共産党だけだった。ほとんどの国民はだまされていた、という歴史観がしっかりとこの両方の国で定着しました。こういう歴史認識だったわけですね。

ところが、1970年代に日本より数年先立って情報公開法がドイツでも、当時での西ドイツでも制定されました。若い歴史研究者が、さまざまな地方の自治体が保存していた公文書を閲覧できるようになりました。私も一生懸命勉強していたはずなのに、そういうものの存在は知らなかったんですが、戦後ドイツでは各地の地方自治体がナチス時代の体験者に聞き取り調査を何度もくりかえし行なっていたんですね。あの時代についてどう思うか。こういうことは一切公表されなかった。だから、みんな一部の悪人たちにだまされていた。悪かったのはナチスだ、あの狂気集団――差別用語ですが、狂気集団のナチスの責任だという歴史観が定着したんですが、私よりも十ぐらい年下の50年代初頭生まれぐらいの世代の歴史学者たちが、1970年代末にそれら一連のアンケート調査の資料を発見しました。

何と、聞き取り調査での体験者たちの意見は、戦後すぐの1940年代の終わりから一貫して、あの時代はよかったというのが多数意見。多数の回想だった。何でよかったのか?――まず、恐ろしい失業がなくなって食うに困らなくなった。これは、あとでもうちょっと詳しくお話しますので簡単に言いますが、その他とにかくいい体験が思い出として生きていたわけです。

実は、日本でもそういう記憶を発掘した人たちのグループがありました。「女たちの現在(いま)を問う会」という女性史研究者のグループが、1977年から85年にかけて『銃後史ノート』という雑誌を出して、銃後というのは、前線で男の兵士が戦っているときその銃後である生活の場では女性がそれを支えたわけですよね。かつてその銃後を支えた戦中世代の女性たち、要するにおばあちゃんたちの聞き取り調査をやったんですね。1940年代生まれ50年代生まれぐらいの女性史研究者たちが行なったその調査でも、やっぱり戦中の女性たちがすごくはつらつとして生きていたということがわかります。ドイツでも、ヒトラーの時代は戦後に生きる私たちが思っているのと体験した当事者たちが思っているのとでは全然イメージが違ったということが、70年代後半からようやく少しずつわかるようになってきたわけです。

じゃ、そのよかったという理由は何だったか。さっきちょっと言い始めたことですが、まずとてつもない失業状況を公約どおりヒトラーはなくしてくれた。それから、それを自信を持って約束して、思いきってどんどんと独裁と言われようが何しようが実行した強いリーダーだった。その強いリーダーが失業を解消してくれたし、経済を再建してくれたし、ドイツを取りもどしてくれた。レジュメには「もどす」という字を漢字ではなく平仮名で書きましたが、これは個人の趣味です。「戻す」という漢字が何となく形が嫌いなので、自民党のポスターと同じように「取り戻す」と漢字で書かなかった、それだけのことです。自民党のポスターには漢字で書いてあります。「日本を取り戻す!」――「にほん」と言っちゃいけないですね。このごろNHKでもアナウンサーが「にほん」というと怒られるそうですね。「ニッポンを取り戻す」と言わないといけないんですが、「ドイツを取りもどす!」と言ったんですよ、ナチスは。つまりヴァイマル共和制がドイツをだめにした。だから、輝かしい歴史を持ち高い文化を持つ誇りあるドイツを取りもどす。国民がドイツ人である誇りを取りもどすことができるようにする。これがヒトラーのナチ党の一番基本にあった公約です。これを実現してくれる強いリーダーが国民の心を引きつけました。

これは、ヴァイマル民主主義時代を生きてきた人にとってはすごく説得力があったんです。これは、私たちの問題でもあるんですが、ヴァイマル憲法のもとでの民主主義は、なかなかものが決まらなかった。議会がねじれ現象どころか、政党そのものがたくさんありましたし、ヴァイマル民主派といわれている勢力が3分の1ぐらい、3分の1ぐらいは共産党社会民主党のいわゆる左翼勢力、これは多いときには社会民主党過半数をとったんですが、それから、右翼民族派はどんなに頑張ってもここに見るとおり3分の1だったんですね。だから、国会でも容易に物事が決まらなかった。「ねじれ」が解消したらよく決まるじゃないですか。だから、ナチス時代になって人々は、やっとあの辛気臭いヴァイマルとかというものが終わった、これからは強いドイツだ。ドイツにけちをつけるフランスとイギリスとソ連、そんなもの、今度はまず基地をたたくことから始めようとか、、そういうふうにして戦争ができる国づくり、どころか戦争をする国がちゃんと実現できるようになった。

その結果、ドイツ国民であることの誇りが取りもどされます。第一次世界大戦で負けたドイツは、これは本当に人間として私は犯罪的と呼んでもいいと思うぐらいの過酷な賠償責任を押しつけられました。戦勝国から。とりわけフランスとイギリスです。とてつもない賠償を押しつけられて、これは1,000年たっても払いきれないとかいう冗談があったんですね。。私は賠償というのは具体的にどう支払われたのか、その細部については不勉強で知らなかったのですが、あるときある小説を読んでいて、うわっと思ったんです。お金、石炭はわかります。ルール地方というドイツの北の西にある、鉱工業地帯のルール地方で石炭がたくさん生産されるのですが、そのころ唯一のエネルギー源であったその石炭はほとんど全部と言ってもいいくらいフランスにとられてしまいました。このように石炭が戦勝国に奪われていくことは想定の範囲内でしょうが、私が小説から知って驚いたのは、電柱、電信柱が賠償品目として大量に戦勝国に送り出されたということです。これは恐ろしいことで、そのためにドイツの豊かな森林が荒廃するのですね。

最も主要な賠償品目である石炭について言うと、1923年の春、テロリスト、右翼テロリストが、フランスへ賠償品として石炭を運ぶ鉄道線路を爆破して、フランス軍によって銃殺刑に処せられました。それを合図にしたかのように、地方政党だったナチ党は1923年の11月9日、つまり敗戦5周年を期してクーデターを起こしました。これが、「ミュンヒェン一揆」とか「ミュンヒェン・クーデター」といわれているものですが、そういうふうに敗戦で押しつけられた非常に苦しい現状に対して何とかしてそこから逃れたいと思う国民の潜在的な感情を、むしろ右翼の愛国者たちが代弁していたんですね。ヒトラーは、まんまとその銃殺刑になったシュラーゲターという青年ですが、彼の爆弾闘争に呼応して、同じ年、1923年の11月の8日の深夜に決起して、11月9日に政権獲得の宣言をしたんです。もちろん1日で鎮圧されましたが。こういうふうにして、先ほどの資料?にあるとおり1924年12月の国会選挙でナチ党が国政選挙に躍り出てくるのは、それまで地方政党だったけれども、そういう「愛国」、「救国」ののろしを上げて全国から注目を引くことができたからでした。だから、いかに第一次大戦の敗戦がドイツの国民にとって重荷であったか。これから脱して何とかドイツ人としての誇りを持ちたいという気持ちがあったわけですね。生活苦にも増して、恐らくドイツ人としての誇りという、私には日本人としての誇りが全然ないので気持ちがよくわからないんですけども、そういうふうな思いがあった。

さて、ちょっとここで一つだけコメントしておきますと、強いリーダーのところで言うべきったんですが、橋下という政治家に対して、彼のやり方を「ハシズム」という言葉でうまく言いあらわした政治学者がいるようですけども、ヒトラーと比べるとヒトラーに気の毒ですね、橋下は。橋下という人は私は本当にあきれてあいた口がふさがらないとしか言えないぐらいあきれてるんですが、彼は、国政選挙に打って出るのかと、あの参議院議員の選挙の前に記者から問われたときに、いやいや大阪都構想というまだやり残した私の命をかけてやるような仕事が残っているから、国政に出るのはそれをやり遂げるまでは出ないと言いました。それから失言をくりかえして、責任をとるのかと問われたら、いやいや都構想をやり通すまではそれが責任であるとか言いいましたね。で、この前、びっくりしたんですけども、今度は記者から、どうも都構想は通りそうもないですね、大阪府都構想がつぶれてしまったら橋本さんやめるんですかと問われると、いやいややめる気はないと言ってましたね。一体何のために彼はやってるんでしょうね。ヒトラーはそういうことは一切ありませんでした。私は、ヒトラーに共感してるわけじゃないですよ、全く共感してるわけではないんですけどれも、福澤諭吉に共感するのと同じぐらいはヒトラーにも共感してるんですが、つまりきちんと批判しきらなくてはいけない敵としてですが、ヒトラーという人は非常に信念のある人でした。そんなこと言ったら犯罪になると思うことでも、自分がやりたいこと、やるべきだと信じていることは、しっかりとやる信念です。

例えば、ナチ党の綱領にははっきりとドイツの政治を担う国家構成員はドイツ民族、純然たるドイツ民族以外にはだめだと書いてあります。この時点ですでにユダヤ人を排斥するということはナチ党の綱領、マニフェストですね、これにちゃんと書いてあるんです。だから、彼は差別主義者とか何とかいっても、あらゆる非難を受けてもそれは撤回しなかった。そして、実行したわけです。それがいいか悪いかは別です。ただ、そういう信念は持っていた。

一つだけ信念を曲げたことがあります。物すごく重要なことです。1933年1月にヒトラーが政権をとったときに、3年後の1936年の冬季オリンピック夏季オリンピックはドイツで開催するということが、国際オリンピック委員会で既に決定済みでした。当時は冬季と夏季とが同じ国で開催されたのですね。ヒトラーが政権をとったとき、国際オリンピック委員会はびっくり仰天したわけです。ヒトラーのナチズムはユダヤ人は排除すると言ってるんでしょう。特にアメリカの選手、ユダヤ人がいるじゃないですか、黒人がいるじゃないですか。黒人はユダヤ人やシンティ・ロマと同様に「劣等民族」「劣等人種」としてナチスの抹殺対象でした。それから頭の黒い人種もです。日本人もです。これは、ナチスが抹殺する対象としてはっきりと、『我が闘争』というヒトラーの著書にちゃんと書いてある。だから、日本はそのころ同盟国だったけど、もしナチス・ドイツと日本が戦争に勝っていたら次は日本人が絶滅させられたんですね。頭の毛の黒い民族は全部絶滅させなければならないと明言しているわけです、ヒトラーは。

さて、そしたらアメリカなどはオリンピックの選手を送れないじゃないですか。ユダヤ人、黒人、髪の毛の黒い民族。それで、ドイツにオリンピックを返上させようと働きかけたんですね。ところが、ヒトラーは考えたわけです。それで、ただ一つ信念を曲げたんです。ユダヤ人及び黒人の入国を阻止しない、オリンピック期間中は人種差別キャンペーンを中止すると、36年のオリンピックのためにこれを世界に向かって宣言したんです。そして、このオリンピックによってナチの権力の確固たる力強さが全世界に宣伝されて、おまけにあの『民族の祭典』と『美の祭典』とか、そういうすばらしい映画までできたわけじゃないですか。御用映画監督の女性、レーニ・リーフェンシュタールによって。だから、36年のあの冬と夏のオリンピック、とりわけ夏のベルリン・オリンピックは、ヒトラーとナチ党にとっては万々歳の結果になった。すでに始まっており、その後本格的に展開されるあのホロコースト、大虐殺の道を、国際オリンピック委員会やその下働きたちは、オリンピックのために見て見ぬふりをし、それを容認したのです。さて、オリンピックというのはそういうものなんですね。私が言いたいことはわかってくださると思いますが。

ヒトラーでさえもオリンピック招致のためには彼の信念を曲げ、公約、つまりユダヤ人を絶滅するという公約ですよ、これを曲げたんです。それを先延ばしにしたわけです。だから、安倍が原発のウソを公言してオリンピック招致に、差別用語を使いますが、狂奔するなんてのは当然のことです。つまり、オリンピックというのはそういう意味があるわけですね。私は、このあと福島を始めとする原発破局的な状態であることが全世界に知れ渡って、7年後といわれているオリンピックはないというふうに私は思いますが、それどころか、破局に頼るのではなく自分たちでなくさなければならないと思いますが、つまりオリンピックに関してだけヒトラーは信念を曲げました。

さて、そういう強いリーダーがドイツの誇りを取りもどしてくれた、ドイツ国民であるという誇りを取りもどしてくれたんですが、もっと実生活の中での体験でよかったというのは、「生きがいのある社会ができた」ということなんです。まず、社会的現実に参加することの充実感を体験したという思い、これが最大の思いです。生きていてよかった、この国に。何かしら勝手にボートでだかヨットで太平洋とか乗り出して遭難して、自衛隊に助けてもらったら「この国の国民であってよかった」と言ったバカがいましたよね。つまり、皆がそう思ったわけです。一部のバカだけではなくて。私がバカというのは、私もバカなので同病相哀れんで言ってるわけですけども、そういうふうにこの国に生きてこのドイツの国民でよかったと皆思ったんですね。

まず、一番わかりやすいところから見ていきましょう。ナチスにとって最大の敵だった共産党社会民主党は、労働者階級の代表をもって自負している階級政党でした。これは歴然たる事実です。ところが、ナチズムというのはレジュメの用語メモに書いたとおり、Nationalsozialismus(ナツィオナールゾツィアリスムス、ナショナルソシアリズム)、国民社会主義なんです。社会主義です。日本で「ナチ」と表記されるNazi(ナーツィ)というのは、国民社会主義の体現者である国民社会主義者(ナツィオナールゾツィアリスト)の略語がナーツィ、その複数形がナーツィース、ナチスなんですね。ナチ党の正式の名称は国民社会主義ドイツ労働者党、社会主義であり労働者の党なんです。ただし、ソ連を初めとするインターナショナル、国際連帯の国際主義の社会主義ではないんです。ドイツ民族、ドイツ国民の社会主義。だから、社会主義の労働者党であることはソ連のあるいは日本のでもいいですが、同じなんですけども「国民社会主義」なんですね。こういうふうにやっぱり労働者の利益を体現している政党なんです、ナチ党というのは。

ところが、政権をとった33年1月30日のわずか3カ月後に5月1日がやってきました。これは、国際共産主義運動、国際社会主義運動が万国共通にメーデー、労働者の祭典としている日ですね。さあ、ナチスは困ったんですね。だって、自分のところも労働者党じゃないですか。でも、メーデーは「赤」のものじゃないですか。文字通り仮想敵国のソ連のものです。そこでナチスは5月1日を「国民的労働の日」というふうに変えたんです。「国民社会主義」にふさわしく「国民的労働の日」として祝日にしました。

この最初のナチ版メーデー、国民的労働の日、この従来のメーデーをなくすわけにいかなかったんですね。共産党社会民主党を支持してきた労働者は過半数じゃないですか。だから、この国民的労働の日にナチスは何をやるか、皆は多分意地悪く見てたんでしょうね。そうしたら、さまざまな都市で、皆さんはもうこういう年齢の方はおられないでしょうが、「花電車」というのはご存じですか。花電車をご存じの方はもうここではおられないですか。まだ路面電車が華やかだったころ、例えば何にしましょう、御堂筋パレードでもいい、そういう祝祭のときに路面電車、市電を花で飾るんです。花電車として。もちろんただで、あるいは記念切符を発売して乗せてくれるし、場合によってはその中でビールなんか飲んでもいいっていう花電車というのがあったんです。世界各地で路面電車の時代にお祭りのために電車を動員して実施されたイヴェントです。

その花電車のかわりにナチスは「花トラック」をつくったんです。つまり、大型トラックの荷台を花で飾って、そのトラックの荷台の真ん中に1つテーブルをぽんと置いたんです。積み込んだビア樽から生ビールをじゃーっと注いで、ジョッキで住民の代表が飲んで、乾杯し合う、その代表は二通り、一人はブルーカラーの労働者、ブルーカラーの労働者ていうのをご存じでしょうか。青服労働者、これは工場労働者を始めとする肉体労働者、現場労働者がブルーカラーと言われてたんですね。昔は菜っ葉服と言いましたけども、青系統の色の作業着を着てたんです。ブルーカラーというのはこのカラー、襟ですけども、要するに汚れてもいいように白い襟のついたシャツは着ないわけですね。もう一人はホワイトカラー。ホワイトカラーというのは、文字どおり白い襟の労働者、昔はクリーニング代が高かったのでワイシャツの襟を取り外しできるようになっていて、襟とカフス、ここの部分も取り外しができるようになっていて、ホワイトカラーの事務職の労働者たちは自分のうちでこの襟と袖だけを洗濯した。だから、シャツの本体は長いこと洗わないでもよかったんです。洗濯の手間と代金が節約できた。

さて、ドイツでは、日本でも私の子どものころそうだったのと全く同じように、ブルーカラーの工場労働者、肉体労働者と事務系のホワイトカラーの労働者では、人間と人間ではない部類というくらいの差別があったんです。私の子どものころに、私は大津で生まれて小学校の5年まで大津にいたんですけども、細い通りで向こうから中折れ帽、ソフト帽をかぶり、革のカバン、いまの時代でいうアタッシュケースを持って、背広を着てネクタイを締めている会社員がやってきて、すれ違えないような路地で、こっちから腰に弁当をぶら下げて、腰弁と言ったんですが、腰に弁当をぶら下げてこの辺にタオルでも巻いて、職人さんや工場労働者がやってきて、どちらかがよけなければすれ違えない。そうすると、まず100%、職人さんや工場労働者が体を細くして路地の端にぺたっと塀にくっつくんですね。そうすると、何の挨拶もしないで事務系の背広ネクタイのホワイトカラーはその前を通っていく。それまでずっと腰をかがめて待っていて、相手が通り過ぎたあと職人さんや工場労働者は通っていきました。私の子どものころそれは極めて普通の光景でした。

ドイツではもっとひどかったんですね。ビアホール、皆さんの中にはそんなふしだらな人はいないでしょうけども、ビアホールや飲み屋へ行くと常連の席をいつも占めてるような、そういうお得意さんがいた時代がありました。今でもあるでしょうか、大阪に。ドイツではビアホールに必ずお得意さんの専用の定席があるんですね。たとえば、この弁護士会館の人たちはこの席にいつも坐る、それは幾ら混んでいても、空けておかなくてはならない。あっ、まだ高瀬弁護士さんの一団が来ない。それならこの席は空いたままなわけです。弁護士さんであろうが工場労働者であろうが、そういう常連の席があるんですが、その両者のテーブルは離れたところにあるというふうに、決して席を同じくすることはないんですね。ところが、ナチスが始めた「国民的労働の日」の花トラックでは、同じテーブルで同じビア樽から汲んだ生ビールを、ホワイトカラーとブルーカラーが乾杯をして、こうやって飲むでしょう(腕を絡ませて飲む)。こうやって飲んで見せるんです。そうしながら町を走るわけです。えーっ、もう市民たちはびっくり仰天。あっ、こっちのほうが本当じゃないか、労働者の党は。

肉体を使うとき頭脳を使うのは当たり前だ、当たり前なのに頭脳労働者と肉体労働者という言い方が全世界でまかりとおっていました。ドイツでは両者の差別はきわめてひどかった。それをナチ党はなくすわけです。肉体労働者を「こぶしの労働者」、いわゆる頭脳労働者を「ひたいの労働者」というふうに言い変えたんです。握りこぶしと額、おでこですね。そして両者は平等であると宣言したわけです。これは、共産党にもできなかったことです。それを、ナチ党はやったわけです。これは、戦後になってもいい思い出であるのは当たり前じゃないですか。これが実はナチス時代の歴史の本当に見逃してはいけない明るい面であったわけです。

ドイツ人は強制収容所は見ないでも生きられた。だけども、頭脳労働者と言って威張ってるやつらに人間扱いされない肉体労働者の無念さと怒りは、毎日自分で抱えて生きなければならなかったという現実がありますよね。先ほどの話にもどりますと、体験者にわからないこと、見えないことがあるということが、ここにもやっぱり現われているわけです。みんな知ってたんですよ、強制収容所絶滅収容所ユダヤ人が殺されているということは。そこへ運んで行かれる貨車から手が出て、子どもにお乳がありません、恵んでやってくださいとユダヤ人が手を差し伸べるのを、ちゃんと受け取って牛乳を入れてやったドイツ人もいるわけです。だから、皆知ってたわけです。これから強制収容所に行く。毎日くさい煙がもくもくと絶滅収容所から上がってるわけですから。でもそれは見ないでも生きることができた。だけども、差別の現実、しかも自分が差別をされている当事者であればそれを見ないで生きることはできなかったということですね。

充実感のもう一つは、やる気があれば「出世」できたということです。ナチス社会主義政党ですから、あらゆる社会構成員を組織化して運動体の一員にしていきます。ヒトラーユーゲントヒトラー青少年団についてはご存じだと思います。10歳になると男の子は「ユングフォルク」、つまり「若い民衆」あるいは「若い民族」を意味する団体に入り、女の子は「ユングメーデル」、つまり「若い女子」という団体に入ります。それが15歳になると、男子は「ヒトラーユーゲント」つまり「ヒトラー青年団」になり、女子は「ブント・ドイチャー・メーデル」、つまり「ドイツ女子同盟」になって、18歳までそこに属します。そのあと男子は「突撃隊」やさらに兵役へ、女子は婦人会などの成人組織に移行していくわけです。そして労働者は、拳であろうと額であろうと、すべて「ドイツ労働戦線」という単一の労使協調の組織の一員になります。このようにそしてあらゆる年齢層と職業のすべての「国民」が組織の一員として生きるわけですが、社会はあらゆる部分がこれらの団体構成員たちのボランティア活動によって担われるようになっていきます。実はナチ党が3分の1とはいえ民衆の支持を得ることができたのは、ヴァイマル時代の初期からずっと一貫してボランティア活動を組織してきたからでした。政権を掌握してからナチスはそのボランティア活動、「労働奉仕」と呼ぶのですが、それを法律によって制度化していきます。社会の隅々まで組織化された団体活動の中で、やる気のある者がどんどん取り上げられるし、それからボランティアを積極的にやっていくとそれがちゃんと見返りとして評価される。何かいまの日本の教育体制みたいですね。そういうのが、しっかりとナチ党によって築かれました。戦後になってよい思い出となったことの一つが、そういう意味での「生き甲斐のある社会」だったということなのです。

4. ナチズム支配はどこから出発しどこに行き着くのか?

第一次世界大戦の敗戦直後の失業状態の中ですでにナチスはボランティア活動に力を注いだのですが、それにもましてとてつもない失業状況がヴァイマル時代の末期にドイツを襲います。資料の?を見てください。資料の?にヴァイマル時代の後期の失業率があります。つまりこういう失業率の中での現実だったということを考えに入れると、ナチス時代には生きがいがあったという感想も、具体的に理解できると思います。1928年には、ドイツにおける完全失業率は、つまり何にも職がないという人は9.7%でした。これでも高いですよね。今の日本では5%を超えるか超えないかで行きつもどりつしていますが。短期労働だけある人、短期労働というのはこれは例えば派遣社員とかアルバイトとか一時的な出稼ぎとかですが、これは5.7%。完全就業者、つまり定職がある人、正社員、これは84.6%いたんですね。いまの日本よりずっと完全就業率が高かった。29年になってちょっと悪くなりましたが、完全失業が14.6%、短期労働7.5%、そしてまだ4分の3以上が完全就業だった。それが突然、30年31年32年と、どどどどどっとウナギ登りになっていきます。

これはどういうことかというと、1929年10月24日にニューヨーク株式市場で株価が突然大暴落した。あの世界恐慌の始まりが29年10月24日だったんですね。この直撃をもろに受けた3つの国がアメリカとドイツと日本でした。アメリカはすでにイギリスを追い落として資本主義の総本家になっていたので、当然です。ドイツはさっき言いましたように第一次大戦での敗戦で、物すごい賠償を科せられたのがようやく復興しはじめていたところに、とてつもない損害をこれでこうむることになります。日本は、外貨獲得の主要品目であった生糸が大暴落して大打撃を受けます。絹はぜいたく品でしたから、世界恐慌に見舞われて不景気になったアメリカやヨーロッパで日本の生糸を買ってくれなくなったんですね。だから、外貨が全く獲得できなくなったといっても過言ではないようなダメージを日本は受けました。ドイツではこれによってまず企業の倒産が相次ぎ解雇が相次いで、失業率がヒトラーが政権をとる半年前というか1年近く前の1932年2月には完全失業率、これ短期アルバイトも何もないということですよ、それが、44.4%になりました。完全就業はわずか33%、労働者の3人に1人です。

このデータは、実はここにわざわざ出典を記したのは、労働組合に加盟している労働者の失業率だからです。何だそうか、どうりでもう一つ下の資料?のところの完全失業率は同じ1932年が29.9%じゃないか、44.4%というのは誇張じゃないのかと思われるかもしれません。今まで大体教科書的には、この下の?のデータが使われていました。これは、政府がとったデータです。この32年までのデータはヴァイマル共和国政府がとったデータです。

じゃ、政府のほうが正しいだろうということではないんです。ちょっと、事情を説明しないといけませんけども、ヴァイマル時代のドイツでは仕事が必要な人はすべて何らかの労働組合に入っていました。失業者もそうです。失業していても、職を探している最中でもそうです。会社の個別の労働組合じゃなくて、いわゆるユニオン労働組合というのかな、そういう組合が中心です。共産党系の労働組合、それから社会民主党系の労働組合ヴァイマル民主派の労働組合、それから右翼の労働組合カトリック政党の労働組合というふうにいくつかの組合がありましたが、それらの労働組合のどれかに入ってたんですね。したがって、現在失業しててもそれからしばらくは育児で休んでたけどまた働こうとする女性も、それから今のところパートをやめてるけどもまたやろうとするいわゆるシングルの女性も入っていた。政府のデータは例えば父親と長男ぐらいまでは労働人口に入れるんですが、どうしても家計を補うためにはパート労働をしないといけない母親であるとか、いわゆる未婚の女性であるとかは政府の労働人口に算入されない場合が多いんです。したがって、労働組合加入者の失業率のほうが客観的に正しいんです。44.4%という完全失業率が正しいと考えていいでしょう。

この途方もない大失業を失くすというのが、ヴァイマル時代末期のナチスの公約でした。それによって支持を獲得し、政権の座に就いたのです。そして、政権を取ると、本当に失業を失くしていきます。戦後になってもよい思い出として残った経済的安定がやってきたわけです。資料?は、1933年以後はナチス政府によるデータです。ナチス政府は労働組合をなくしました。先ほど述べたように労使協調の「労働戦線」なるものをつくって、全労働者を単一に把握したので、これ以後のデータは客観的です。これを見ていただいたらわかるとおり、ヒトラー政権の最初の年に早くも44.4%の完全失業率は6割くらいにまで減ったんですね。それから、第2年目の34年には13.5%に減り、35年位は10.3%になります。こうしてついに38年には1.9%失業率、これはほとんど無失業社会ですね。翌年の1939年9月1日にナチス・ドイツポーランドに侵攻して第二次世界大戦を開始しますから、この38年というのは戦争前の最後の年です。

さて、1938年の失業率1.9%、これは、ナチス政府にとっては実に困ったことです。だって、翌年戦争を開始するわけですから、失業率1.9%では戦争できないでしょう。つまり、兵隊になる人間がいないわけでしょう。というよりむしろ兵役年齢の人間が兵隊に行ってしまえば、働く人間がいなくなってしますわけです。現在働いているお兄さんやお父さんが、工場からあるいは炭鉱から農村から兵隊に行ってしまったら、失業率1.9%ではその後を埋める人間がいないですよ。さあ、どうしましょう。ここから、ヒトラー・ナチズムの本当の姿が現われてくるのです。

戦争開始に先立って、ドイツは隣国オーストリアを併合しました。日本の韓国併合と同じように、オーストリアを38年3月に併合したので、属国となったオーストリアから初めは「自由徴募」、ドイツへ行って働くと金になるよと言って、「自由意思」でドイツ本国へ出稼ぎに行く人を集めます。日本がこれを真似して朝鮮半島でやるわけですが、これを始めます。しかしやがて、ドイツへ行ったらひどいぞという真相がオーストリアにも伝わります。

そうすると、やがて次は強制連行ですよね。日本がこれをすべて学んで朝鮮でやりました。これが始まっていきます。こうして次に39年に戦争を始めて、まずポーランドを占領したら、ポーランドユダヤ人ゲットーの中に工場をつくってユダヤ人を労働力として使い、さらにゲットーから強制収容所に移して強制収容所で強制労働をやらせます。強制収容所というのは強制労働のためのキャンプです。働けなくなった人間や初めから働けない人間を強制収容所に付属する、もしくは別個に設立された絶滅収容所で殺すわけです。だから、ユダヤ人も強制連行されて労働力として使い殺されたわけです。戦争が続くにつれて占領地域からは強制連行によって外国人を労働力としてドイツに送り、その結果として敗戦当時のドイツの全労働人口の4割ぐらいが外国人になります。こういうふうに、外国人労働力を使い殺さなければならなくなっていくわけです。だからいったい、失業がなくなって働くことに困らなくなったという戦後の回想は何だったんだろう? 失業がなくなった後に、あの文字どおり世界中の人が知っている強制労働と絶滅収容所がやって来なければならない道筋を歩んでいたのに、そういうことは体験者には意識されなかったわけですね。

さて、こういう中で「第三帝国」と称したナチス・ドイツは繁栄していきます。ヒトラーは最後に戦争で負けて自ら命を絶つまで、ドイツでの3回の暗殺計画が失敗したんですが、排除されることなく支配者であり続けました。そのヒトラーが政権をとってすぐに始めたのは戦争の準備でした、実は。これは、今では全部データ、資料が明らかになってますが、政権掌握後に直ちに官僚たちや資本家たちに「5年で戦争が可能になる体制をつくれ」という指令を出しました。5年でということは、1938年です。事実、38年、この失業率1.9%となった年にすべての戦争準備は整いました。それで、1939年9月1日にポーランド侵攻第二次世界大戦ヒトラーは始めました。ここで、ようやく多くの国民たちがみずからの家族が戦争で殺されていくという、そういう時代を迎えることになっていきます。

ヒトラーが政権獲得後最初に着手した大規模プロジェクトは、「アウトバーン」と呼ばれる自動車専用高速道路の建設工事です。この大阪にもいっぱいあるあの高速自動車道です、日本が学んだ。ドイツではナチス時代に自動車専用の高速道路が全国に張りめぐらされたわけですが、これはもともとヴァイマル共和国の初期にヴァイマル共和派がわずか20キロほどつくって、結局資金がなくなって、不景気で中止しなければならなくなった計画があったんですね。それをヒトラーは政権獲得と同時に全国にアウトバーン、自動車専用高速道路の建築を始めます。

この工事を1933年の春から始めていきますが、実はそこには先ほどちょっと触れたまま深く言わなかったボランティアを投入していきます。つまり、失業者は職がないわけですから、このとてつもない10人に4人半の失業者は職がないので、それをこの工事に重点的に投入したわけです。すでにヴァイマル時代末期のあの大失業状況の中で、ナチの突撃隊員たちが、公園や路上でごろごろしている失業者を集めて、「おい、きょうの晩のビールとパンにだけはありつけるぞ、ボランティアに行こう」と言って、「労働奉仕」というんですが、労働奉仕に連れていって辛うじてその一日を生き延びることができるようにしてくれるというので、ナチスのそういうボランティア組織活動というのはとても人気があった。それを今度はヒトラーは自動車専用道路の建設に、全国の失業者をボランティアとして投入していきます。

ボランティアのチップ、謝金は正規の労働者、この場合は建設労働者ですが、正規の建設労働者の5分の1から7分の1のチップがもらえる。大体そういうのが相場でした。だから、例えば現在時間給1,000円のパート労働者であれば10時間働いて1万円ですよね。それが、ボランティアに行くと1,500円から2,000円ぐらいもらえるという感じでしょうか。多分、今に置きかえて言うと。

さて、こういうふうなボランティアによる社会建設が始まっていくんです。このボランティアは狭い意味での労働だけではありません。例えば、町をきれいにしましょう。パトロールをしましょう。さらには、兵士になっていくのもボランティアです。もともと、ボランティアという言葉は古代ローマで志願兵、義勇兵のことだったんですね。別に強制もされてないのに、自分が生きていくために兵隊しか道がないという人を雇ったわけです。アメリカ軍がいまそうですけれども。そういう志願兵、義勇兵のことをボランティアと言ったんですが、社会のあらゆるところにボランティアが組織されていったんです。これは悪口を決していうわけではないんですけれども、大震災の被災地へ行く、伊豆大島へわっと行く、やっぱりものすごく大切なことだと私は思います。ボランティアというのは。自分が持っている力をそれを必要としている人のために何とか役立てたい、これは社会的な生き物である人間にとってはとても大事なことだと思いますが、ボランティアというものがナチズムによってこういうふうに利用されてきたという歴史は、やはり押さえておきたい。やっぱりこれも日本国家が全部学びました。日本の労働問題専門の御用学者たちがナチス・ドイツの労働奉仕制度をきっちり研究し紹介して、国家がそれを日本の制度として実施したのです。日本では労働奉仕ではなく「勤労奉仕」と呼ばれました。労働というのは左翼の言葉だったんですね、天皇制の日本では。したがって、勤労、お勤めです、天皇陛下に対するお勤めです。勤労奉仕と言いました。小学生から大人まで勤労奉仕で炭鉱労働とかさまざまなことに動員されました。これみんな、ボランティア労働です。「労働奉仕」や「勤労奉仕」がカタカナ英語になれば「ボランティア」になるだけです。こういう制度化されたボランティアが戦争を支えたんですね。実は、ボランティアが戦争を支えたんです。義勇兵だけじゃなくて、銃後もボランティアが支えた。これがナチス時代ドイツの典型的な姿でした。当時の日本もそれを学び、それを制度化しました。

そして、このアウトバーン建設によって、セメントとか鉄骨とかさまざまな資材の需要が増え経済に活況かが生まれるだけではなくて、その工事をボランティア労働から始めていくことで建設企業や建築資材の企業は正規の労働賃金の5分の1なり7分の1なりの安い謝金、チップで労働力が使えるわけですから、大企業はいわば人件費分の利潤を蓄積することができる。こうして、正規の労働者を雇う余裕が企業にできてきます。アベノミクスが考えたこともそういうことなのかどうか知りませんが。こうして、失業率が減っていったんですね。そしてその結果として、さっき言いましたが失業率がなくなったあとの恐ろしい時代が来たということです。ところがそれだけではなかった。アウトバーンの工事が開始されたとき、工事の総責任者に任命されたナチ高官は、この道路が「有事のさい」に軍隊が最短時間で目的地に到達できるためのものであることを明言していたのです。つまり、それは軍事道路であり、戦争のための準備にほかならなかった。この事実も視野に入れるとき、ヒトラーによる失業状況の解消は、さらに戦慄すべき現実として浮かび上がってこざるを得ません。しかも、あの大失業状況の中で失業の解消を公約として叫んだヒトラーは、ドイツ人の労働を、それを不当に奪っている連中から奪い返す、と言う意味で叫んだのです。ナチ党に投票し、ヒトラー政権成立後の成果に驚喜した「国民」たちは、この成果が可能になった根拠と、この成果が行き着く結果とに対する責任を、問われざるを得ないと私は思います。そしてもちろん、これは私にとって他人事ではないわけです。

第2部
5. なぜ、これが「ヴァイマル憲法」のもとで可能だったのか?
((続)

http://www.ki.rim.or.jp/~jclu_oh/kouen/2013-11-16_kiroku.shtml