至高『辺縁へ』刊行後記(『六曜(むよう)NO.10』所収(2008,3,1発行)

句集『辺縁へ』刊行後記
              至高

 この度句業一〇年の成果を一冊にまとめて上梓することができました。
想えば師鈴木六林男(むりお)という俳人に出遭い、その謦咳に接することができたことは、俳句のみならず人生の僥倖であったと感慨を深くするものです。晩年の弟子である僕に、生前の六林男は、定年になってからでは遅い、定年までには形をつけておいた方がいいとも言ってくれました。その定年がハッと気付くと目前でした。

 『辺縁へ』というタイトルは、この句集の気分を表しています。二〇世紀末、日本人は未体験の時代を迎えていきますが、バブル経済の狂騒と崩壊を経て、長い停滞の時代に入ります。僕にはどこか表現しようのない明るく平和だが居心地の悪い、何処に佇っているのか、また何処へ向かって歩いていけぱいいのかわからないような感覚に浸されていったように思います。個人的にも、時代の病理が我が家を次々と襲い、心中では悲鳴をあげていました。いま一度「むこうからやってきた」世界から遠く離れて、自分なりに世界像を取り出して自分の「ことば」を紡ぐしかないという想いにかられ、それが込められています。
 従ってこの句集は、体験を取り出して反省的にみていますので、団塊世代ないし全共闘世代へのメッセージ色が濃いものとなっています。ただ、過去をそのままノスタルジックに記録として書いてはいません。「いま・ここに」という現在を問うものとして提示しているつもりです。
 
 今日までに多くの方からお祝いと励ましのことばをいただきました。中でも出版記念会に頂いたメッセージは忘れがたいものとなりました。筑紫磐井氏の「六林男を否定することなではなく、別の荒野に旅立つことです。」として、「かつて山口誓子の『東港』の序文で高浜虚子は、誓子は俳句を見捨てるであろうと述べました。いい言葉です。歴史はほぼこの言葉にそって進みました。」と述べて、この故事を餞にいただきました。過分な言葉として重く受け止めます。また池田正博氏の選句「孤立無援の蓑虫を手の平に」で、「手に握り締めていたもの」にまで目配りする視線は、やはり同時代を生きてきた者の慧眼を思わせます。ちなみに六林男が絶賛した一句です。そして大先輩である思想家笠原芳光氏の「戦中派は、一世代隔てた全共闘派の方々に共感するところが尠(すくな)くありません。」という親愛のメッセージは最大限のエールと受け止めさせていただきました。今やこの親密性は歴史の秘事となりつつありますが、僕はこの両世代の関心としたテーマを枯渇させずにひとつの「文脈」としてささやかながら思想史に架橋していきたいと思います。余談ですが、旧「花曜」の総会で鶴見俊輔氏が講演をされた折ご挨拶をすると、にこやかに振舞われていた氏がにわかに顔を引き締めて、名刺を僕へだけ差し出しながら、よければ岩倉の自宅へ遊びに来るようにと言っていただいた。このとき一九六九年同志社大学機動隊導入に抗議して職を辞されてから、このひとの中にも共通のある凍結した時間があることを実感したものでした。

 僕の方法を的確に見抜いた方に野口裕氏がいます。「通俗的言い回しをいかしつつ、(略)時代に対する批評精神のたくましさを感じる。」という評は勇気を与えてくれました。また若い俊英富岡卓也氏からは、三鬼と六林男の子弟関係になぞらえて、六林男を引き受けつつ自分の作風を完成するよう励まされました。内心むつかしいなぁと呟いていますが、若い世代に恥じない価値ある討ち死にはしたいと思っています。そして江里昭彦氏には「折紙の鶴になる頃汚れけり」を選句いただきました。この句は旧『花曜』の巻頭を飾りました。さすがにその選句眼には脱帽です。改めて江里氏への信頼を深める結果となりました。僕は言語表現の価値より、内容を重視して書いてきました。つまり難解な俳句より共感性、これがこの句集の方法です。なお評論は、一定の先人の研究成果を読み込んだ上にポスト・モダン派のような巧言を用いることなく直截に書いております。いずれも雑誌掲載用に書かれたため、文字数に制限があり、ほぼ通説としての既知の部分は断定的に書き流していちいち論証していません。そこが汲み取れていない批判は無効だと思っています。

 さて、僕のなかに俳句否定論者が間違いなく育ってしまっている。俳句の短さは長所であるが、同時に短所でもあります。これからの道程は世評の軽重ではなく、自分の中の俳句否定論者との葛藤になることでしょう。俳句(詩)が困難な時代は、表現の価値追求へ向かう難解な書き方と、共感やことば遊びへ向かうライトバースな書き方に乖離してゆきます。どちらが高尚だともいえません。できればこの乖離をどこかで統合できるようなものが書ければいいと思うのですが、右往左往することでしよう。

 最後に貴重な時間を割いてお読みいただいた全ての読者に深く御礼申し上げます。
            (『六曜(№10)』二〇〇八年三月発行所収)