判決は、現行の民法規定である同性規定は違憲ではない、別姓の選択には裁判で決めるのではなく国会で論議してくださいよと言っている。
現行の同性規定が違憲だとしてしまうと、別姓論側のいう選択肢を殖やせなくなるわけで、同姓は肯定しておくという判断は、それれ自体人権無視だのなんだのということを言うと、別姓論側自体も論理矛盾に陥る。
筆者もお恥ずかしいことだが、最高裁判決を読んで、誤解していたことに気付いた。要するに同姓婚の規定を別姓婚に訂正してしまえ、ということではないのだ。同姓にプラス別姓もありよ、という訴訟なのだ。
世間では筆者同様多くが間違った理解をいまだにしている。(少なくとも周囲のオヤジ、オバン、ジジイ、ババアたちは)
このちょっと誤解してややこしい議論になってしまう初発の問題は、なんなのだろうと考えた。
これは明らかに「選択的夫婦別姓論」というキャッチコピーにあると思った。
これでは中身がなんのこっちゃ判らない。
わたしもマスコミの末席にいた経験からすると、これは下手くそだと思う。
わたしなりに作ると、
「同姓別姓併置論」とした方がはるかに判りやすくなる。
今のキャッチコピーは官僚がつくったのかマスコミか知らないが、明らかに民法規定保守へ誘導する隠された意図が仕掛けられているように思う。
同姓を別姓に全部一律にしてしまう話なんですよ、そんな家族をばらばらにするような恐ろしいことを賛成派はいっているのだ、けしからという意見が埋め込まれているように感じるのは、筆者だけか?
作為的に「選択的夫婦別姓論」の「選択」を抜かせば、「夫婦別姓論」となり、ますますその意図は強くなる。
こんな詐術に乗っかって別姓選択を主張するほうも文学的センスがないというか、うかつだなと思う。
こういう社会構成に関る問題は、常識=支配イデオロギーに訓育されているから、それを突き破るキャッチコピーを創造しないと、世間さまは頭が切り替わらない。
ということで、今後別姓派は有利に早期に果実を得ようとするなら、筆者の提示する「同姓別性併置論」を前面に押し出して、筆者のような社会意識では保守的な人たちを覚醒されんことを期待する。
筆者のキャッチコピーの方が、どう見たって選択肢が広がる話だけなのよ、ということが一目瞭然です。