森沢程著第二句集『プレイ・オブ・カラー』鑑賞

 森沢程の第二句集である。森沢は故鈴木六林男主宰「花曜」同人、年齢は定かではないが60年代後半に多感な青春時代を送ったと聞き及んでいる。
「花曜」時代には、六林男の寵愛を受けていたが、才能ばかりではなくそれは美貌も一役かっていたかもしれない。
現在は、「藍」(花谷清主宰)に所属している。

拙句集『俳句のアジール』を送付したことに、思い出したように返信してきたのが掲句集でることをみれば、彼女からは筆者の存在など眼中になかったことはあきらかである。それはこの句集から合点がいった。六林男門下と言えども、資質と個性に導かれて、多様な果実が実っていくことは当然といえば当然のことだ。

約300句集中29句を選択した。

 花栗や星より静かなるものに坂
 少年の梅雨の障子の発光す
 どうしても地球は重く落し文
 昼のまま葦の岸辺の三輪車
 学校の影を離れず鉦叩
 神苑の鹿に鞄を見つめられ
 凍蝶の国道からの風絡む
 身の丈や沼に粉雪降りつのる
 花冷えの胸のあたりが水平線
 縄文の入江へ落ちし紙風船
 夜の滝這いのぼりゆく飛沫あり
 放蕩や翁草には立ち止まり
 業平に深爪あらん藪つばき
 アネモネの茎の静けさ父のもの
 前衛も糞ころがしも風のなか
 見つくして手のひら乾く紅蓮
 郭公や家にいて家なつかしき
 梢には夜越しの戦ぎ牽牛花
 枯野より浮標らしきもの抱え来る
 耳鳴りにまぎれ千個の風車
 戦場と知らず蜥蜴は音たてず
 セーターの毛玉とりつつ滅びるか
 初蝶は前から「僕」はうしろから
 犀に冬の陽兄が呼びにくるまで
 天上も春愁のころ石舞台
 燕子花死後とは知らず並び立つ
 夏至間近恍惚として虫眼鏡
 白馬の血流しずかなる野分
 風花の空へ滑車が吊るマネキン
 
集中多くが佳句であるが、とりわけ秀逸な句を二三味わってみよう。

 花栗や星より静かなるものに坂
花栗と星の取り合わせで、静謐な坂の現前性をリアルなものとした。交通のにぎにぎしさは坂にはない。危険であるため交通量が少ないのが多くの坂である。また古来辺鄙な村はずれの坂は異界へ続くなにかである。今ここの自分を顧みて、静かな思いの中に、別の自我を再編したいという「超越」を秘めた欲望を、ただの情景句を超えて表出している点が読み取れる。花栗と星に着目されがちだが、一句の統辞としては、「坂」であることによって秀句となりえた。

 どうしても地球は重く落し文
作者は、人間より地球の方が重いんだよ、人間が重いなどという思想は虚偽であったのではないか、とでもいうのだろうか。近代の自由人権思想も虚偽といえば虚偽でしかない。しかし、万人が「妥当」だと思えば、すなわち間主観性の成立は「普遍性」として認知される。作者の本意はわからないが、地球を国家にずらせばもう今の時代の「空気」そのものだ。作者のイロニーだろうと思いたい。
なお、季語「落とし文」が動くとか動かないとか訳知り顔にいう輩にはいわせておけ。季語は記憶である。万人が同じ記憶をもつなどあり得ないだろう。

 アネモネの茎の静けさ父のもの
アネモネの茎は確かに静けさがただよう印象をもたらす。「父のもの」は、その静かさなのか、別のものがあるのか。ここが曖昧である、とはねられる危険はある。この句を佳句だが秀句で取り上げるわけではない。「アネモネ」という乙女チックな象徴を上五に設定していることだ。作者の句集題名といい、集中に甘いカタカナ語─ゼリー、フラット&シャープ、チャイム、オルゴール、フルート、ジュゴン、タンバリン、ユーカリローズマリー、シフォンケーキ、オルガン、ワイン、プードル、モナリザ、キウイ、サラダバー、ソーダ水などが多く、作者にこういう乙女チックさが通奏低音として流れ、モダニティーの意匠を纏わせようとする。それが句風を規定しているように思えるためである。いってみれば、土俗性や歴史性から切れていこうとする。その意味で「俳壇主流」へつながる資格を得ているともいえよう。筆者の思い込みであろうか。

 前衛も糞ころがしも風のなか
前衛と糞と等置することで、前衛を小ばかにし、無効を追認している。それはそれで句としてはいいのだが、「わたしたち」は過去に良くも悪くも世界の多くの人々によって、科学的社会主義を掲げる「前衛」が受け入れられ、貧しい人々の「普遍的理念」であったことまで否定すべきではない。歴史はそれで動き、前進したことを「学術的」に葬り去ってはいけない。「学術的」にその過誤を正当に位置づけ、それを庶民の「常識」にすることが必要である。それがその理念のために命をかけ倒れたものたちへの追悼であり、それを失くしたとき世間は右翼一色になる。
「前衛」の過誤の中からしか「わたしたち」は「正しさ」の条件を紡ぐことはできないのである。

 郭公や家にいて家なつかしき
ふるさとを長く離れていると、広い意味で「家」を考えさせられる。花谷清は跋文で、実家での感想だろうと述べているがそれはどうでもよい。故郷喪失者が離散した家族に思いをはせたとき、その対極に今の「家」に対する思いが立ち現れていることが大事なのである。「なつかしき」は建屋ではなく「家族幻想」であることは明らかである。今政権は、道徳教科書を復古させ、教育勅語で戦前の家族幻想を教え、憲法改正で家長を復活させて、結婚を両性の合意から家長許認可制度に復活させようとするが、「なつかしき」の措辞はそこへつながっていくのか。庶民の「なつかしさ」はマスとして時代の心理を生み出す、それを利用する為政者には注意が必要である。考えさせられる一句である。

 犀に冬の陽兄が呼びにくるまで
不思議な句である。まず句またがりで散文的である。もうそれで評価が大きく分かれよう。「犀の冬の陽」は解る、「兄が呼びにくるまで」とはどういうことか。この距離を埋めるのは読者の仕事だが、妹、弟、父、母、ではどうか、「兄」でないとやはり犀との関係で落ち着きが悪い。「読む」とは作者の意図と読者自身の読みを二重に読むことである。作者の説明をきいてみたい一句ではある。気になる。

 天上も春愁のころ石舞台
 燕子花死後とは知らず並び立つ

この二句に作者が六林男門であったことを矜持として持ち続けている痕跡。六林男に「天上も淋しからんに燕子花」がある。これは当初句会でも俳壇でも見向きもされなかった。歌人塚本邦雄によって発掘され名句として認知された。作者が天上と燕子花にそれを踏まえていることは、天上が「春愁」であり、「燕子花」が死後の世界を呼び込んで使われてていることに明らかである。

 白馬の血流しずかなる野分

俳句にも現代詩にも白馬はしばしば登場する。まず白馬の「白」と血の「紅」の対比で日常を離脱させる。「白」であるゆえ無垢なる神聖な世界と「血」の穢れによる対比が換喩としての効果を生む。そして、馬の波打つ血流の力動のもとでは、野分が「しずか」であるという語の矛盾をリアリティとして定着させる。この喩の重層的効果によって完成度の高い秀句に仕上がっている。

集中全句佳句である。それは「俳壇」主流への切符を手にしたかに見える。あえて「俳壇」主流に異物となろうとする筆者とは路行は違うかもしれない。それはそれである。俳句は自己承認の最短距離にある言語ゲームであるからには、権威や制度から遠く離れることを価値とする筆者までもが、さまざまな路行を否定しては矛盾だからである。
だがポストモダンは明らかに反省を要求されているし、あらゆる俳句が消費という位相の中に消えていくことは避けがたい。
しかしそれに抗うか、無自覚に自己承認の欲望だけを制度化した権威に服従していくかは、千里の径庭である。
六林男は「俳句はうまく書こうとすればいくらでも書ける。だがあえてそれをしないのだ」と記した。意味性にとどまり、思想性を打ち込んでいく六林男の箴言であっただろう。

蛇足だが、森沢程経歴をみて、「花曜」以後「光芒」(久保純夫代表)、「風来」(和田悟朗代表)、「藍」(花谷清主宰)と遍歴していることに"ある痛ましさ"を感じてしまう。俳句はひとりでも書ける、森沢程はそれだけの力のある作家である。ひとりで自立してもいいのではないか。あるいは筆者のように所属しながら「無党派」を意識化していくことも面白いと思うがどうか。
(了)