追悼・俳人金子兜太

小説・俳句の大家小林恭二氏の情報で今金子兜太が死去したことを知りました。俳句を知らない人には馴染のない名前かもしれない。戦後俳句をけん引してきた象徴的な俳人です。元現俳協会長。
この25日には上田の無言館で、昭和俳句弾圧事件被害者を追悼する「不忘の碑」の除幕式が催される予定だが、兜太は体調不良で来れないのではないのかという噂が聞こえていました。
この催しは、同時に金子兜太追悼集会になるでしょう。
この企画は兜太の「海程」同人のフランス人マブソン青眼が発起人とって現俳協俳人120名が協賛。
少し横道にそれます。
戦中虚子の「ホトトギス」系(伝統俳句協会)のファシスト特高の結託により、「アンチ『ホトトギス』」(新興俳句系)の俳句作家だけが弾圧されました。100名を超える。代表的事件は「京大俳句弾圧事件」があります。なかでも戦後も尾を引いた問題は、西東三鬼の名誉毀損事件です。三鬼スパイ説を書いた小説家がいて、これに対し、私の師匠鈴木六林男(三鬼の愛弟子)が回復訴訟を起こし、勝訴しました。世界で死者の名誉回復訴訟は唯一のものだといわれ、法曹界でもいまや貴重な判例となっています。
兜太が現俳協会長、副会長が鈴木六林男(故人)の二人三脚で長く戦後俳句をけん引してきました。
しかしあるとき、兜太が六林男に言います、ぼちぼち後進に道を譲りたいから二人とも役職を降りようと投げかけました。
六林男は快く承諾し、副会長を降りました。ところが蓋を開けると兜太は名誉会長に昇格し、六林男は無役となりました。六林男は生涯兜太の卑劣を呪詛しました。私たち三鬼一門は東京への対抗心もあって、兜太への印象はいいものではありません。いやこれは六林男の心情を共有している私のような者で数は少ないかもしれません。
実際、私には兜太の功績はもちろん認識していますが、作品では六林男の方がひいき目なしにいいものがあるし、戦争体験を出発にした戦後俳句という意味では、六林男の作品が象徴しているでしょう。

戦地中国大陸からフィリピン戦線での作品は、
「遺品あり岩波文庫阿部一族」、
「悲しければ壕は深く深く掘る」、
「長短の兵の痩身秋風裡」、
「風の中困憊の赭き河流れ」、
「寝て見るは逃亡ありし天の川」、
「英霊と揺られまぶしき鱶の海」

一方兜太のトラック島戦地回想作品は、
「大き帆船厠の窓に月ひと夜」、
「ふる里はあまりに遠しマンゴー剝く」、
「床の蟻惑わば惑え熱を病む」、
「魚雷の丸胴蜥蜴這い廻りて去りぬ」、
「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」、

スペクタクルのような六林男に対し、兜太は私小説的マクロの眼で詠んでいます。
好みだ、と言ってしまえばその通りでしょうが、新興俳句の飛沫を浴びて、俳句と生の蜜月の度合いが深い六林男と東大でのエリートとして銀行員として歩んでいた兜太の戦争の内化の程度の差が表出しているのだろうと思っています。
私は「左翼」のようにあの戦争を紋切り型の否定をしません。深く内面化した者に共感します。六林男はどこかにやはりこの戦争は嫌だけど、しかしやらなければならない戦争ではないか、という内面が感じ取れます。
そこがどうもエリートの兜太との違いのように思えます。
しかし、兜太と六林男はライバルでありかつ同志でもありました。晩年不幸にして、兜太の東大出のエリートとしてのいやらしさ、裏切りが二人を犬猿の仲にしてしまいましたが、「戦後俳句」を語るうえでこの「盟友」を抜きには語れません。
東京に知の一極集中が激しくなるとともに、兜太が神格化されていきました。私は、そんな風潮にどうしても違和感をもちます。鶴見俊輔が、戦争に負け、日本近代を廃墟にしたのは、「一番病」だと批判し、それを無自覚に体現してきた「東大卒」にダメ出しします。兜太のエピゴーネンと東京の出版ジャーナリズムが兜太を大御所として祭り上げましたが、行政的手腕と作品の優劣をごっちゃにしていないかと近年は懐疑してきました。
まあそんな六林男の兜太にたいする怨念をわたしが代弁しているうちに、またあの世で二人は酒を酌み交わしながら句会でも始めていることでしょう。
合掌

(参考)

追悼 兜太と六林男 (『奔』2号所収)
http://haigujin.hatenablog.com/entry/2019/02/23/230649

金子兜太 春陽堂俳句文庫

(Facebookより転載)