日大アメフト問題の本質―どこにだってある軍隊体質と人格破壊方式

日大アメフト問題も、いよいよ田中理事長の言動に焦点が集まってきた。
田中理事長が相撲部OBで、1970年日大闘争の頃大学側の立場で活躍したであろうことを知る人は知っているのであるが、今日のテレ朝ではそれを裏付けるような事実はなしに一代記を報じていた。
相撲だけ強くて経営の理事長にまで上り詰めることができる日大という楽園の体質は、相変わらずだなと思う。
まあ理事長だから、専門のブレーンがいればどんなアホでも経営はできるのだが。しかしそうはいっても組織はいつも流動的でそれを統治する場合、合理的にやるか脅迫的にやるかはトップの考え次第であろう。田中長期体制はどちらに比重があったか、今の時点では何ともいえない。
しかし、私のように日大闘争の過程をつぶさに見てきたものは、暴力団と体育会が、古田理事会体制にどのように利用され、矛盾追及の学生たちに襲いかかったを知っている。ゲバ棒などというヤワなものではない、本物の日本刀や斧で襲ったのである。
立花隆の『中核vs革マル』にはこう記されている。
「日大闘争では、全共闘の学生たちが、体育会系の右翼学生によってしばしば襲撃された。そこでは、棍棒、木刀はもとより、トビ口、鉄熊手、鉄パイプなどが使用され、なかには日本刀がふりまわされた例もある。機動隊がいかに乱暴にデモを規制しても一応法律のワクという制約がある。しかし、右翼の襲撃の場合は、ヤクザの出入りなみに、制約のない暴力がふるわわれる。」

1970年2月25日、商学部全共闘の中村克己君はビラを配布中に右翼に襲われ死亡。

東大は全共闘学生を襲ったのは共産党=民青である。関西大学は右翼の日本学生同盟、敵対派はそれぞれ大学の体質によってそれぞれが露出してきた。
田中理事長は、襲撃班に入っていたのかどうか、テレ朝などヤワなマスコミが、そこまで掘り下げることはない。
なお、立花隆はときどき唖然とさせられるのは、機動隊は規制してもその暴力は法律の範囲だという。冗談じゃない、そうではなく合法性は彼らの恣意的解釈で合法を装うだけである、ということが理解できていない。おそらく立花はデモには一度も参加したことなどなかったのだろう、全共闘ネタを食い物にしてジャーナリストの地位を築いていっただけなのだろう。

テレ朝のコメンテーター全員の間違いはどこにあるのか。
日大の体質が個人より組織を重んじるところだというような俗説を振りまくところだ。
そんなものどちらも大切に決まっている。ここからが思想の問題なのだ。マスコミに思想がない。
組織を組んだ時、開かれているか―それが問題の本質なのだ。
個人は自由に出入りできること、内部は指導/被指導の関係ではなく自由の相互承認の原理で回っているか、これに尽きる。

自らの〈自由〉を十全に獲得するには、「他者からの承認」をどうしても必要とする。自らが十全に〈自由〉になるためには、私の自由が他者から認められると同時に私自身もまた他者の自由を認める――〈自由の相互承認〉の理念を共有し、この理念のもとに社会を作り上げていくほかない。これこそが近代社会の「原理」だ、と。
(苫野一徳『どのような教育が良い教育か』書評レジュメ:枡岡大輔)

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日大が70年の頃のまま、なんの進化もなければ、それは人間を実体化し、肉体を潰すことで思想も潰せると思っている点であろう。これは左翼スターリズムと相似形である。
中核派戯れ歌にこのようなものがある。

組織と個人を 秤にかけりゃ
組織が重たい 左翼の世界
やがて革命の来る それまでは
意地で支える 思想性
流れ流れの 亡命政権

黒を白だと 言わせることも
しょせんタタミじゃ死ねないことも
百も承知の ゲバルト稼業
なんでいまさら 悔いはない
セクトがからんだ 内ゲバ出入り
(『全共闘グフティー』新泉社)

日大だけをターゲットにしても解決しない。この指導/被指導に名を借りた人格隷属方式(いわゆる弟子の人格を喰うやり方)と非合理的日本帝国軍隊方式は、市民社会には斑のように広く残存していて、多くのこころある人たちを苦しめているのである。
(Facebookより転載)

(日刊ゲンダイ)