追悼 兜太(とうた)と六林男(むりお)

追悼 兜太と六林男

                                                   拙著

                                   

二〇一八年二月二〇日、九八歳で金子兜太が亡くなった。

俳壇は追悼の言辞に溢れた。長く現俳協朝日新聞や角川俳句に君臨してきたのだから、当然と言えば当然だろう。兜太と接したのは二〇〇三年現俳協の名古屋で行われた俳句大会の受賞式に出席した折だけだった。師の鈴木六林男と三人で写真に納まっている。

それ以前に、新宿紀伊国屋書店でたまたま六林男と兜太の文庫本が二冊だけあって、立ち読みをしたのだが、兜太はまったく響かなかった。六林男の俳句に衝撃をうけ、関西の俳人だということなので、顔をみてやろうとそのまま句会に出入りするようになった。この時点で、わたしの内部では兜太とは決着がついていたのである。

その後も兜太の俳句に特に感動した覚えはなかった。もちろんいい句だなぐらいには思ったものはあったが。

業界を知るようになって、六林男と戦後俳壇を牽引した点で、戦後俳句の支柱であったことは認めるところである。したがって、わたしにとっては兜太と六林男は不即不離の関係であって、兜太だけを語ることは難しい。またあまり語る資格もない。

(生年と軍隊経験)

兜太、大正八年九月二三日生れ、父は医師。
六林男、同年同月二八日生まれ、父は医師。
ほぼ同時に生まれている。
また、兜太は東大経済へ、六林男は山口大商科。

兜太、昭和一九年、学徒出陣(東大)で海軍主計中尉に任官、
    (エリートコース、主計には学徒に村上一郎、軍人に中曽根康弘) 
六林男、昭和一五年、歩兵三七連隊機関銃中隊二等兵入隊

兜太、トラック島にて敗戦、二一年米軍捕虜として帰還。
六林男、一七年バターンコレヒドール要害戦で負傷帰還。
    左腕に銃弾貫通と弾片を体内に残した、それが終生疼いた。

              五㎝ズレていたら心臓を貫通していた。

兜太、帰還後日銀へ復帰、組合専従をしばらく務める。終生日銀を勤

          めあげる。
六林男、PTSDか、数年無為徒食、後中小企業経営者、大阪芸大教授。

(戦場俳句の代表句とされている作品)

兜太、水脈の果て炎天の墓碑置きて去る
六林男、遺品あり岩波文庫阿部一族

少し俳句を読める人なら、兜太の即物的な単純なリアリズムに対して、六林男の句は喩の重層性が際立ち、時代に対する思想性を感じられるだろう。

(俳歴の出発について)

兜太、昭和一三年「成層圏」から「寒雷」へ。
六林男、昭和一一年「串柿」、一四年「螺旋」創刊。「京大俳句」、「自鳴鐘(とけい)」、「天狼」に投句。西東三鬼の弟子となる。

(足跡について)

兜太、昭和三二年現代俳句協会賞受賞、三六年現俳協が分裂俳人協会誕生、現俳協に参加。同年「海程」創刊。現俳協会長後名誉会長。
六林男、昭和三三年現代俳句協会賞受賞、同現俳協創立参加、四六年「花曜」創刊。同年高柳重信と「六人の会」結成、五〇年現俳協副会長。のち兜太の奸計で無役となる。

二〇〇四年一二月一二日逝去、八五歳。

ふたりは同世代の代表的な傑出した人物であることは間違いない。
兜太は、東京の主流を歩んだ。もともと出自は「ホトトギス」の影響圏とみなしてもよい抒情派加藤楸邨主宰「寒雷」である。戦中の文学報国会に虚子とともに戦争翼賛派として重きをなした。戦後兜太は、日銀神戸支店に赴任してから、関西の俳人と交わり刺激を受けたと述懐している。
 関西には、戦前からの「京大俳句」を軸に新興俳句があった。その流れから西東三鬼が山口誓子をたてて、『天狼』を立ち上げる。戦後紙がなくて六林男の誌(『晴天』)を譲り受けた。そこから多くの戦後俳句を担う俳人を排出。いわば、戦後俳句はこの「天狼」の三鬼と山口誓子の山脈から伝統俳句と訣別にいそしむ。今の俳人協会の鷹羽狩行、故上田五千石など現在の「大家」の若かりし頃の修行場であった。そのすそ野は広い。
 東京は、虚子の古色蒼然は別格として、加藤楸邨が多くの弟子を抱えて、抒情性俳人を排出していく。その一方で象徴詩の影響を受けた前衛俳句の高柳重信が中核となり、短歌とともに前衛俳句運動を牽引していく。
 乱暴に言ってしまえば、戦後俳句は、楸邨系抒情俳句、高柳らの前衛俳句、沢木欣一や鈴木六林男の社会性俳句、大野林火、日野草城、などが源泉となっている。花開くのは、戦後生まれの俳人たち、例えば故攝津幸彦:の『豈』、坪内稔典の『船団』、高岡修の『形象』、林圭の『鬣』など、また個人では江里昭彦や久保純夫など。ほとんどが同人会であり、結社であっても結社らしからぬ場だといえる。筆者の狭い視野のなかだけなので、漏れている方には申し訳ない。

兜太は、社会性とも前衛俳句ともくくられるが、その風潮の後は「風土詠」に境地を開いたといわれている。あまり兜太に親しんでこなかったので、「造形俳句」論もよく分からない。筑紫磐井氏の『ふたりごころへの離陸』が解り易かったが、兜太に論拠があったのかどうか、わたしには疑問だ。そのような俳人の俳句論は、屋号のようなもので、弟子集めののれん程度のものとしか思っていないからだ。芸術言語論とは程遠い代物ばかりだからである。草田男との執拗な論争も、一句の統辞論を抜きに季語を語ってもあまり意味はないように思う。わたしに言わせれば、一七文字の定型のままで、すなわち形式をぶっ壊さずに前衛というのが分からない。長歌から短歌が、短歌から俳句がでてくるレベルが前衛で、表現の更衣程度で前衛もないだろうと。つまり、言語の美的価値の検討を抜きにした、角川俳句あたりがジャーナリスティックに社会性俳句だとか前衛俳句だとか括ったのではないか。だから今になると簡単に社会性俳句が自壊しただとか、六林男は社会主義リアリズムだとか頓珍漢なことを東京の方ではいうのではないのか。もともとの定義がいい加減だから流行り廃れに乗ってさも理論的意匠に包んで述べているに過ぎないように思ってしまう。

 

兜太の句、

湾曲し火傷し爆心地のマラソン

 これを添削した草田男の句、

爛れて撚じれて爆心当てなきマラソン

 明らかに局地戦では兜太の勝ちだろう。しかし草田男にも今でも鑑賞に耐えられる名句は沢山あるところを見ると、論争は俳句の価値に届いていない、といえるのではないか。二人はなにかウマガ合わなかったんだろう、ぐらいに思ってしまう。

俳句は句座を中心に展開するため、人間関係の好し悪しで作品が分離されず属人的に評価される独特な文芸である。好きな人の句は読む、嫌いな人のは無視。わたしのような小人はそれでも仕方ないが、しかし主宰に納まったり、批評を生業にしている本物の俳人は、それをしてはいけない。

 戻るが兜太と六林男は同時代のライバルとして君臨したが、ウマが合わない。お互いがそう言い合っている。

六林男の追悼文に、兜太はこう記している。
「『天狼』の大会に私を呼び出し、誓子、静塔たち先輩俳人に引き合わせてくれたのも六林男、―書き出せば際のないほど、神戸在住の四年四か月(筆者註・日銀神戸支店勤務)、私は六林男の世話になっている。世代的共感(略)言うに言えない親和感だと思っている。」
そして続ける、
「しかし、私は六林男にしんからは親しめなかった。
六林男も私には違和感をもっていた。一度ふたりになったとき、かれが、どうもあんたとはしっくりこないなあ、と言い出し、私も思わず、そうだなあと言ったことがあった。
ひと言でいうと、六林男の鬱屈した振る舞いが嫌いだった。溜めていて、構えていて、率直に出さない。だから口調が威圧的にもなる。いやな野郎だ、と思うこともしばしばだったわけで、六林男俳句にもしんから親しむ気にはなれなかったのである。」(『鈍重の美学』平成一七年『俳句』三月号角川書店

兜太の見方は当らずとも遠からずだ。
確かに、屈折していた点はわたしも認める。ただし兜太と違って表現者の美質として。
 それしても、六林男の追悼文のタイトルに「鈍重」と被せる感覚はいかがなものか。また追悼文に実はあいつを嫌いで俳句もいいと思えなかった、などと書き連ねる感覚は、プロの俳人としては失格だろう。そこを一旦分離し、作品は表現理論として客観的に述べることがなければ、俳句評価の普遍性などというものはなくなってしまう。

おそらく六林男は、兜太のエリート臭、上から目線の評価、いやもっと深層を勘ぐれば、兜太のような戦争をエリートで生き抜いた者たちへのぬぐいがたい反発だったのではないかと思っている。
 六林男は俳句を愛したが、同時に俳句では自分の心情や考えが十全に述べきれない焦燥と諦観を抱えていた。私はつき合いの中で、そうした呟きに何度も接している。
だから、六林男の交友は面白い。埴谷雄高近代文学派との淡い付き合い、アナキスト小野十三郎、青銅世代小川国夫とは終生のポン友、金時鐘など在日ら、晩年は鶴見俊輔など、普通の俳人が付き合わないような人物と交わっている。

兜太の交友関係とは毛色が異なる。兜太は東京を中心にしたいわゆるジャーナリズムに軸を置くような「文化人」が多い。

なお、兜太は書いていないが、六林男が兜太を嫌ったのは小賢しさであっただろう。現俳協副会長職を兜太の奸計で追われたためである。
 後進に道を譲りたいので、自分も会長を降りるからあんたも副会長を退いてくれ、と六林男に迫った、六林男は快諾したが、蓋を開けてみると、兜太は名誉会長に自ら座って、六林男を無役に追い落とした。現俳協には選挙がない(昔はあったとも聞く)。六林男は終生この件を恨んだ。それから六林男は弟子に現俳協に入るなと「布告」したのだった。この六林男もおかしいのだが、六林男の屈辱も分かる。役職が「偉さ」だと勘違いしている俳人も多いからだ。

兜太は同じ追悼文で、死んでから六林男を讃えてもいる。単なる儀礼なのか、ライバルに対するオマージュだったのだろうか。しかしわたしは兜太が六林男の屈折には最後まで理解できなかったのではないかと思っている。

六林男が屈折している理由は次のようなものだったのではないか。

「ぼく、戦争が終わったとき、みなさんがなさっているようにすぐに民主主義だとか何とかに走れなかった。現象がよく把握できなかった。読書で、民主主義とは何かぐらいはわかっていましたが、戦後処理がぼくの内部で思うように進捗しなかった。」(『証言・昭和の俳句(上)』(角川書店))

『証言』には他にも、特高の検閲、治安維持法の認識、江藤淳のGHQの戦後検閲問題などが前半部分に語られており、戦中戦後の六林男の認識が溢れている。兜太は、こうした証言に対して、六林男は蝦蟇のように構えて、体が納得しないと表現しないと評する。六林男に俳論らしきものがないと言われてもしかたがないほど寡黙である、とも。

私に言わせれば、兜太のように米軍の捕虜となり帰還し、そのまま日銀へ復帰して、一時労組専従になった、いわゆる「進歩的民主主義者」よりよほど「戦争の誤りを内在化した」と思えるのだが。
吉本隆明風に言うなら、戦中の在り方を顧みず、天皇に代わってGHQが統治者となったと自然現象のごとく戦後に滑り込んだ保守派ないし転向左翼の側ではないのか。六林男の言葉にはしなかった兜太と「しっくりこない」感触は、こうした戦後への向き合い方が付き合いの中で微妙な陰影をつくったのではなかったかと、私には思える。
いずれにしても、こういう態度を鈍重だとかと評価するものではないのではないか。

この『証言』の書中には兜太の証言も採録されている。
六林男のように戦中の問題、検閲・治安維持法の弾圧事件、西東三鬼スパイ説名誉棄損裁判を闘ったような、戦後も尾を引いた戦中問題など、文学者がくぐらざるを得なかった戦後の問題を、兜太はまったく話題にしていない。ほとんどが俳句取り組みと俳壇交遊録に終始していて、作家の主体としての差が明らかに見てとれる。

兜太は桑原武夫の「第二芸術論」を「わからなかった」と述べているが、内容が解らなかったのか否定の意味なのか。
 六林男は、晩年までこだわり、鶴見俊輔をよんで、『花曜』総会の講演で、桑原の本意が十分理解されていないと鶴見に語らせている。鶴見は桑原武夫の尽力で京大に職を得ており、桑原を最もよく識っている。通説を排して桑原の誤解と真意の貴重な証言である。

とはいえ、兜太は流石だなと感服したのは、さいたま市公民館俳句弾圧事件に先頭を切って異議申し立てをした姿勢だ。銘のある俳人のほとんどが沈黙しているなかで、兜太は戦前のファシズムと戦中の非道を終生骨身に刻んできたなと改めて感慨を深くした。マブソン青眼との発起による「俳句弾圧事件不忘の碑」建立式典の日には僅かに命が届かなかった。兜太を亡くして除幕用の紐がむなしく垂れていた。俳人の中には、兜太のそうした態度が嫌いだと公言する者もいる。それは俳句ばかりか、俳人格の劣化というべきだろう。政治的対応をしろということではない。少なくとも表現に携わる者は、公権力の介入には、表現の自由を守る義務がある。それは表現者の矜持としなければ俳句自体が残らない場合もでてくる。

また兜太はジャーナリズムの後押しで後進への影響力は大きかった。行政的手腕では六林男の及ぶ処ではなかった。

 『俳句』(角川文化振興財団)の二〇一八年五月号誌上の「兜太追悼特集」は七一ページを費やし、付録の別冊まで付けている。追悼文は多士済々にぎやかである。これに比して、二〇〇五年三月号の「六林男追悼特集」はわずか二五ページである。寄稿は兜太、斎藤愼爾、他は弟子が二人、葬儀写真は筆者の提供という寂しいものである。商業誌であるから、購入予想読者数からすれば、東京にいて影響力を及ぼす兜太に見合った紙巾を割くのは当然ではある。しかし、戦後俳句の貢献度からいってそれほど六林男が差をつけられる存在だっただろうか。俳句のクウォリティをつけ加えるならば、遜色はなかったと思う。唯一六林男がかなわなかったのは東大閥でなかったことだ。兜太の上から目線は終生六林男には鬱陶しかっただろう。

兜太と六林男、いずれにしても戦後俳句を駆け抜け、未完のまま置きざりにして逝った。

最晩年の作品を比較して味わう。到達域が違っているのもわたしたちには貴重な遺産となるだろう。

兜太
被曝福島米一粒林檎一顆を労わり
鹿の眼に星屑光る秩父かな
炎天の墓碑まざとあり生きてきし

六林男
ひとりの夏みえるところに双刃の剣
全病むと個のたちつくす天の川
言葉ありまた末枯れをさずかりし
絶筆、
憲法をかえるたくらみ歌留多でない

 

(出典:『奔』2号、2019.1月)

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【註】

追悼金子兜太

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