福田和也著『近代の俳人VOL4-鈴木六林男』-忘備録

福田和也がわが師鈴木六林男に言及している。
兜太を取り上げる軽薄な文学者はいるが、六林男を取り上げる識者は少ない。
面白いのは、六林男の俳句に魅せられるのは、兜太のようないわゆる進歩派のみならず、保守派からも評価されるところである。
保守派といっても、今風の似非保守=クズ右翼ではない。小林秀雄江藤淳吉本隆明などの系譜である。その意味で、江藤の弟子ー福田和也が取り上げていることは合点がいくのである。ちなみにわが畏敬する山崎行太郎氏は、福田と並ぶ江藤の愛弟子。
よく六林男の簡潔にして的確な評価である。

静寂と狂奔が同時に表現される。
前線の兵士たちも「俳句」を詠んだ
近代の俳人Vol.4
福田 和也

 大学の講義で、数年来、近代俳句をとりあげている。

 その年ごとに俳人の面々は異なるのだけれども、これまであまり文芸に触れる機会のなかった、一、二年生にとっての、文学入門、といった意味あいである。

 なぜ俳句なのか?

 コンパクトである事、その利点は大きい。

 瞬時にして、作品を共有する事が出来る。

 さらに凝縮されているために、解釈のバリエーションが豊富だ。

 どの解釈が正解という事がない。

 たとえ、作者の意図とズレていたとしても、鑑賞として筋が通っていれば、面白ければ、そしてスリリングであれば、それでいいのだ。

 一度、金子兜太氏にインタビューさせていただいた事がある。

 芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」について。

 金子さんは、この蛙が一匹ではなく、何百、何千匹だ、と仰った。

 一匹であれば、何とも静かな、侘び寂びた光景が目に浮かぶ。

 しかし、何百、何千だと・・・。

 産卵のために、或いは孵化した蛙たちが、熱を発しながら、次々と水のなかに跳び入っていく。古池の水面は狂奔する生命で煮立ったようになる。

 能の一場面のような静寂ではなく、ストラヴィンスキー春の祭典』のような狂奔へと大きく振れる。そういう幅の大きさ、スケールが十七音で表現されてしまうのだ。

 それは、素晴らしい事であるが、恐ろしい事でもある。
俳句一つを握りしめて、人は生きることができる、生きてしまう。しまいには、尾崎放哉のように俳句と心中してしまう者もいる。

 山本七平のジョーク。「各国民は捕虜になったら、何を一番にはじめるか?」

死と腐臭がみなぎる中で、絶望を語りたかった
 ドイツ人は捕虜になると、収容所の規則を微細に決めた上で、裁判所を設ける。

 アメリカ人は、脱走の計画を巡らす。

 フランス人は、食料を調達する。

 イギリス人は、階級秩序を維持する。

 では、日本人は?

 句会を組織する・・・。

 上級将校から、一兵卒までが座を組んで各自の作品を披露しあう、ゆかしい集い。

 言の葉に祝福された民の幸せ、と云ってしまっていいのかどうか。いずれにしろ俳句は、日本人とは何か、どういう人種なのか、という事を考えるうえで避けられない要素である。

 当然の事ながら、捕虜だけでなく、前線の兵士たちも俳句を詠んだ。

 その白眉が、鈴木六林男の作品だろう。

 鈴木は、西東三鬼の弟子だった。

 三鬼に、戦争想望句というシリーズがある。

 戦争をテーマにした連作だが、実際に三鬼は前線にいたわけではない。

 けれど、鈴木は最前線で戦い、身体に一生、十数個の機関銃片を抱えて生きた。

逆襲ノ女兵士ヲ狙ヒ撃テ!       三鬼
負傷兵のしずかなる眼に夏の河   六林男

 想像と実体験の差、といった尺度ではとらえられない隔絶がここにはある。

 けして、三鬼が劣っている、と云うような事を私は云いたいわけではない。

 三鬼には三鬼の修羅があった事は、誰もが識る事だ。

 とはいえ、言葉の、調べの違いは何だろうか。

鈴木六林男 西東三鬼に師事した六林男(1919~2004)は、'71年に俳誌「花曜」を創刊した
 鈴木六林男は、大正八年九月、大阪府泉北郡山滝村(現・岸和田市)に生まれた。

 中学生時代から『京大俳句』に投稿し、西東三鬼に師事するようになった。

 山口高等商業学校(現・山口大学)に入学したが、昭和十五年、陸軍に応召し、中国大陸を転戦。

 一時期、肉攻班に配属されたこともあるという。肉攻とは、敵戦車に爆弾をもって肉薄攻撃をする部隊であった。

追撃兵向日葵の影を越え斃れ
新戦場寒き鉛筆を尖らする

 対米開戦とともに、フィリピンに転戦し、バターン・コレヒドール作戦に従事した。

 本間雅晴中将率いる第十四軍は、一月半でルソン島主要部を占領する予定だったが、ダグラス・マッカーサーの持久作戦に手こずり、多くの損害を強いられた。

 鈴木六林男の句作のハイライトは、やはりフィリピンでの作だろう。

弾道学負傷者笑い捕虜笑う
遺品あり岩波文庫阿部一族
夕焼へ墓標たてもう汗も出ない
水あれば飲み敵あれば射ち戦死せり
射たれたりおれに見られておれの骨

 「射たれたり」の句について、六林男はこう語っている。「自分の骨見ても、肉屋へ行ったらよう売ってるわな。犬に喰わせる豚の骨なんか。あんなように骨見えてるわけやろ。そんなもん俳句としては、全然ええことあらへんわ。それでも、やらないかんときは、それでいく」(『花曜』昭和六十一年三月号)

 コレヒドール作戦により再度被弾、六林男は帰国を許された。

 移動を前に、一切のノート類を没収された。

 だが、六林男は、二年間に及ぶみずからの作句すべてを暗記し、無事、祖国に持ち帰る事が出来た。

 これもまた、俳句ならではの、利便性ということになるのだろうか。

 作家の真継伸彦は、六林男についてこう書いている。「鈴木六林男は、死と腐臭のみなぎるさなかで、倦怠感に押しふたがれる。彼はその時、不浄観を行じる僧のように、最も深く沈黙の実在に接していたのである。彼はしかし黙りこまない。襤縷と化して自己無化におもむく被爆者の群れが自ら語ろうとするように、この作家は、この絶望を、何としても語りたかったのである」(『鈴木六林男集 家賊』)

 晩年、六林男は栄誉に与った。現代俳句協会賞、蛇笏賞、現代俳句大賞を得て、大阪芸術大学の教授になった。平成十六年十二月、死去。

週刊現代」2012年7月14日号より