選挙のコメントが欲しいと言われても、言い続けてきたことばかりだからあってもないようなものだ。
新聞も週刊誌も読まない筆者は、状況自身がミクロでは解らない。
なにしろ参院選に、特定枠ができたなんてことも、二三日前に(選挙中盤)知ったくらいだ。
ただ選挙情報がわからないから、政治に関心がないということではない。
人一倍、というかライフワークが政治社会を分析していくことだからである。
昨日、TBSのサンデーモーニングへ電話して注文を付けた。
メディアで仕事をしてきた経験から、視聴者からの電話は一番敏感に反応するのがメディアだからである。
TVはスポンサーも怖いが、もっと怖いのはやはり視聴率が取れないことだからだ。
右翼の歴史戦と称して、彼らの言う「反日番組」へ集団で抗議電話をか:
ることを運動にしていた。
その先鋒が安倍晋三であったことはよく知られている。
NHKが典型だが、安倍の「妾」になった岩田記者が局内弾圧を徹底し、「中国電子台」なみに落ちたことは周知のことだ。
TBSの原因はなにか、
この参院選の「特定枠」は、「自民党以外活用している政党はない」という女性アナの説明についてであった。
れいわ新選組は活用しているではないか、説明に間違いがあった、
と言うと、
番組スタッフは、いやテロップでは出ていたはず、
説明は諸派はすべてカットしています、との説明であった。
筆者は、
それは困る、ちゃんとすべての政党について説明して欲しい、
なぜなら、選挙民からすれば政党の大小ではなく、等しく投票対象であるからだ。
なぜ、TV局の独断で重要な情報をカットするのか、合理的根拠があるのかどうか。
これにはハー、ハーというだけで返答はなかった。
お笑いや、食レポなどどうでもいい番組を大量に垂れ流しながら、選挙期間中くらい集中的に細目の情報を伝えて欲しいものだ。
その点では、最も右傾化したテレ朝ではあるが、羽鳥モーニングショーは健闘している。
今朝も選挙の争点である自民党改憲問題を木村草太教授を招いて詳細の検討を流した。先日も年金問題を取り上げたし、選挙期間に呼応した時宜をえたものであった。
玉川君がいつ外されないか、気にしながら、ほぼ毎日評価を番組宛のツイッターで褒めている。もちろんダメなコメンテーターには論点を指摘してツイートしている。
リベラルなコメンテーテーを守る方法も、視聴者からのエールだからだ。
政治家も報道記者も、結局サポーターが育てるのである。
これが日本人は圧倒的に弱い。任せて文句だけ言う。
いまこの日本人の弱点を克服しようという運動形態を模索しているのが山本太郎のれいわ新選組だろう。
バックのスタッフになかなかの人物がいるように想定できる。
発言が、吉本隆明の根本思想の数々がみられるからである。
彼は意識していない、普通の勉強の中で、当たり前のものとして受容したと思うが、見る人がみれば、吉本隆明の生活思想が根底に敷かれていることが分かる。
とにかく、既存の政党体質と、生活保守の共産党支持者から自民党支持者まで、一括して乗り越えようという「政治主義からの転換」を意味しているから、擁立した候補者をみれば素晴らしい人材ばかりである。
ただ、政策について消費税問題は、原理的に正しすぎて異論はある。ここでは長くなるので控えるが。
筆者は、約半世紀前、1970年前後、
「戦後民主主義は不徹底である」として、学生青年労働者とともに闘争を行った。
社会党(というリベラリ最大野党があった)、共産党、進歩的文化人、朝日新聞などリベラルもどきのマスコミは、「戦後民主主義を守れ」といって学生運動を潰しにかけた。
闘争の対象そのものを打倒する直前まで行くと、
暴力はいけない、
議会政治を守れ、
「戦後民主主義を守れ」といって、
それらが戦後民主主義の「すべて」のように喧伝して、
直前で自党保全に明け暮れた。
外形的政治体制は貴重ではあるが、傀儡政権だって外形的民主主義は成立させている。
筆者らは、「実質の民主主義」が欲しかったのだ。
そんなわけで、延々とそんな政党どもが織りなす選挙に、
気持ちが入るわけはない。
しかし、だからていって、森友学園事件でのとりあえずの勝利はそれらを支持する人たちとの共闘でもあったことを、無視するものではない。
合法がすべてではない、
政治改革には、
日常保守からの覚醒的契機(ベンヤミン)も必要で、
SEALDs(元メンバーは改憲論を主張)のように規制デモから逸脱したデモ参加者を自ら叩きのめすようなことをしている限り、
「擬制としての民主主義」に騙され続けるだろう。
「われわれ」の側には、金がない、
「やつら」は金も支配権ももっている。
政治のダイナミズムは、多様な運動形態を容認することでしか効果は引き出せない。ホンコンの学生人民をみればわかることだ。日本人は安全な場所で、言論ポジションを守れば民主主義だと錯覚してきた。
「擬制の民主主義」に慣らされ、いつまにか戦争のできる国にしてしまったのである。ネオファシズムはもっとソフトに巧妙に近づいてくるのだ。戦前のむき出しの暴力はとらない。
映画「新聞記者」のエンディングのシーンで、
内調の局長が吐いたセリフを、よく噛みしめる必要がある。
日本には「民主主義の形だけあればいいのだ」。