茫茫と影を踏む
秋富士の車窓に流れ故郷(くに)流る
秋の富士山は赤紫色に燃え立つ。これを見たことのない他府県の人には、話してもにわかに信じられない。裾野に暮らしていれば当たり前の風景が、何年も離れていると旅行者のように静かな感動を呼び起こす。車窓に流れる風景は、そこにわたしの不在を告げている。自分の卑小さを識るたび、富士山は大きくなってゆく。長い大阪と東京を行き来する生活。乾いた砂の時間が流れるように故里は車窓に流れていった。
医学者の静かなる自死山眠る
頭のいい男だった。大学の医学部で小児科医として研究。脳性小児麻痺患者に特有な脳にある疵を発見した。世界的発見であった。山陰地方の大学にいたときは何度か訪ねて遊んだ。夭逝を悼み心底哭いた。高校時代、彼に唯物史観を教えられたが、人間の意思・主体が歴史を動かすというわたしの持論と衝突した。しかしいつも彼の方が正しいのかもと内心思った。須津の自宅に帰るにいつもわたしの自宅の柚木経由で帰った。若き日の彼との論議は、結局わたしの思想的原風景となった。
散骨の海を見ており時雨けり
葬儀には出られなかった。亡くなる三か月ほど前に京都へいきなり来られた。二日間京都見物に付き合い、旧交を温めた。帰りに酷い集中豪雨がきていて、新幹線が大幅に遅れた。確かに今生の別れのように、お互いの姿が見えなくなるまで手を振りあった。そして一周忌に散骨の駿河湾を前に黙祷。BMWで同行してくれたのはN君。彼も既に鬼籍に入られた。彼は幼稚園からの幼馴染、何でも話せる奴だった。癌を患ってから回復したようにみえたが、定期的に電話を入れて励ました。そのたびに彼は大丈夫だと明るく笑った。
自転車で捜す昭和の麦藁帽子
平成に入り、何かが剥落していくようだった。みごとな青田を渡る風、黄金色に染まる農道を自転車で走り抜ける、そんな昭和に見慣れた故里の風景は徐々に変質した。故里を遠くで想えばカセクシスの哀切。
ふるさとの糞を踏み抜く風芒
もう故里にすがっても誰も助けてくれない。お前は何をしてきたのだと、風が問う。中原中也の詩が染み入るばかりだ。思い起こせば、結局逃れるようにこの町を出ていったのだ。おどろおどろしい因習を捨てて、同時にぬくもりも捨てた。甘い姿勢で歩けば、故里では糞を踏み抜く。茫茫と吹きすさぶ芒野に。
時雨中シャッター街の痩せし犬
二〇〇〇年を過ぎた頃だっただろうか、ある雑誌に富士駅前のシャッター街の写真が載った。富士登山客が見事なシャッター街だと驚いて投稿したものだった。友人にきくと、もう富士には映画館もないのだと。なんという文化的不毛の荒地となり果てたのかと嘆いた。そのシャッター街にずぶ濡れになって、駄犬がうろついていた。よく見れば、それはわたしであった。わたしも犬になるくらいなのだから仕方ないか。
友逝きしを蜩の告ぐ異郷かな
故里の死者をふやせり吾亦紅
そして還暦も過ぎると、故里から、他郷から、便りは友の死亡通知が増えていった。青春を熱く共有した者も、顔と名前の結びつかない淡い交友の者も、等しくなくなり、等しく同じトーンでわたしの下にもたらされた。それは改めて自分の来し方を見つめ直させた。
日の没りのここより故郷花すすき
「ここより」とはどの辺りか。地理的概念でありながらそうではない。既に尾骶骨が根を張った今の生活域を、意識が混迷した折にふと現れる非在としての故里だ。原風景といってもいい。個としての生成の連続と非連続に立ち現れる辺りであろう。
高校時代の孤独なベトナム反戦雑誌編集、それに対するNHK教育テレビの取材を学校側が禁圧、その挫折の記憶に齢とともに回帰してゆく。
古稀を機会に、俳句と社会評論誌『奔』を発刊。何者にも阿ない自立した書き手とともに「わたくし」自身であろうと奮闘している。
(富友会会誌NO.72)