福井紳一氏の『SECT6』シリーズは、われわれの源流を照射している。

『出版人広告人』2020.5月号拝受、
今井照容さまありがとうございました。

福井紳一氏の「SECT6」その11が、参考になったというか、懐かしいというか、読み応えがあった。

記憶がよみがえるのは、小生の学生時代の理論的指導者であった清水征樹(故人)が、間違いなくSECT6の流れに在り、自分で自覚していなかった諸点が整合性をもってつながってきたように思った。
小生らが、関西ブント一枚岩の中で「非ブント」を掲げ、党派とは等距離であるとした組織論は、清水の思想にあったことを想起させてくれたが、彼のSECT6を高く評価していたような言動がよみがえる。

清水が酔った折に二三回、SECT6がもっとも優れていると自分の自慢話のように言ったことをわずかに記憶している。どのような関わりがあったのかは知らないが、おそらく直接運動体としての関りはもってはいなかっただろう。

当時の小生にはSECT6が何者なのか知るよしもなかった。そのまま記憶の底に眠っていた。
清水は、恒藤武二(恒藤恭の子息)の弟子八木鉄男門下として同志社大学の法学部長を務めた。したがって恒藤恭のひ孫弟子にあたる。ちなみに八木鉄男は小生の仲人である。

豪放磊落、よくできた研究者として評価されたが、酒を呑み過ぎて60を待たずに早逝した。

福井氏の論稿で、SECT6の概要によって、小生らが少なからずその下流に位置していたことを自覚させられたように思う。

清水は、セクトの街頭政治闘争だけに集約することを嫌った。
ゲバ棒、火炎瓶も評価しなかった。まして内ゲバやリンチを、党派の論理にはどのような党派も付随するとして、小生らに党派に入ることを許さなかった。
そして敗北がはっきりした頃、党派の草刈り場になったが、わずかではあったが党派に入って行った活動家を唾棄した。
赤軍派の活動家は、初期の執行部は別にして、ほとんど活動歴や名前を知られていないような学生が多かった、活動家としての論理的研鑽をほとんどしていない。幼稚な観念性はそのあたりに原因があったと思っている)

普通に就職して、生活する以外になにがあるのだ、その中に必然として闘争が組み立てられなければ思想ではなく、
組み立てる意味をみいだされなければ闘争などするな、それは転向でもなんでもない。
そんな風な考えを共有していたように思う。

彼は山本義隆より1か2下だったのではないか。信州の高校時代に安保闘争を体験している。

 

そして山本義隆の、マーク・ラッド(註)への応答は、全共闘の基幹運動論として広く流布されたもの、公式見解のようなものだ。

山本もマークも、闘争後も国家権力に長らく追われ、また無名のまま散った活動家も郷里まで追ってくる公安警察に苦しめられたはずである。
小生は、そうした鉛のように胸に抱えながら、沈黙を続けている元活動家が気にかかってきた。
私財を投じて雑誌を発行するのも、彼らが語る契機となれば、また自己の記録を「証言」として残して欲しいと望むからである。
小生がこだわるのは、こうしたヴアナキュラーな声を救い上げたいと思うのであるが、必ずしもうまくいっていない。

読者をえるには、どうしても商業誌の装いを持たなければならず、左右を問わず、庶民の権威主義が障害になっている。

無名ながら佳き書き手は、無名の佳き書き手にしか分からないという悲劇の時代なのである。

フーコーの「パレーシア」という思想こそが今要請されていると思うのだが。

 

(註)

マーク・ラッドは、『いちご白書』で有名な1968年コロンビア大学闘争のリーダー。

その後「ウェザーマン・アンダーグラウンド」を組織、武装闘争後7年間地下へもぐる。

自首、監獄を経て、地方の高校数学教師を引退。現在コミュニティ運動に献身している。

昨年2019年来日講演。山本義隆、大谷行雄氏(呼びかけ人)とともに、山崎博昭の墓参を

果たす。