忌々しいTVオリンピック番組を切る毎日。

テレビがいざとなればオリンピック一色となり、ほらやっぱりスポーツはいいね、アスリートの演技や技が見事だと賞賛する。
同時に、民主党議員まで、
政府関係組織の問題と、スポーツのすばらしさは別だと、オリンピツクは楽しめると平然と宣う。
それは確かにスポーツのすばらしさは、政治とは別だ。
讃えればいい。
しかし、政治は全てを飲み込み、方向づける。
個々のアスリートの競技が素晴らしく讃えられるのはいいとして、問題は、ここの演技がナショナリズム政権政党の描く共同性に擬制されていくことが危険なのである。
個々のアスリートの演技が問題なしに賞賛されているとすれば、
今、大谷選手だろう。
国籍、人種、身分に関係なく、彼の野球は賞賛されている。
個が個として、そこでは実存化され、フラットに選手と観客が一体となった人間の肉体的躍動を享受している。
いわばオリンピックのような虚偽も擬制もない。
プロとしてありのままの姿で、みなが楽しんでいる。
もうクーベルタンが国家を単位としてスポーツを平和利用しようとした、擬制のもとの平和主義は、人々の感覚になじまなくなっているのではなのか。
書きなぐりで、十分推敲もしてないので、表現が稚拙であるが、そんな風に、忌々して思いを抱きながら、オリンピツク番組が映るたびにスイッチを切る毎日だ。