精神障碍者の犯罪についてのコメントと左派リベラルの沈黙

【コメント1】
統合失調症の飯森被告への判決が出た。
大変むつかしい判決だったことだろう。
責任の所在は、あくまで被告人自身の心と心理の動向であるから、本人主張と健常者のみる外形的行為の連続性によって判断するしかない。
しかし、統合症患者は、病状の程度にもよるが、目の前のことには健常者と同様まったく問題なく処理できる。
だから外形的に観察して、病気が影響していないというは即断できない。
その異常と正常は、まだらのように、入り組んでいて、行為の一貫性に幻聴や妄想が影響している場合もあるようだ。
私は、やはり計画性はもちろんあったと認めても、
見た他人の顔の人物が、絶えず妄想の中で襲ってくる特徴は、明らかに人格としては、それが一体化していたとみるべきで、結果責任を問えるものではないだろうと思う。
病状の特徴は個人差があり、飯森のようなケースはまれではないのか?専門家の事例を訊いてみたい。
このように場合は、やはり解放病棟での経過観察が随時必要だったのではないだろうか?
この事件で、繰り返される日本的精神病政策の遅れに影響させてほしくない。
多くの統合失調症患者は、心優しく、競争原理と弱肉強食の資本主義社会を相対化してくれる存在だからである。
健常者の方が、はるかに犯罪は多いのだから。
飯森には、刑罰ではなく治療であり、社会が圧力にならないような地域社会の作り直しが必要だろう。
他人の顔が、絶えず襲ってくるという被害妄想は、対社会との関係のなかに圧力が発生していることを物語っているからだ。
 
【コメント2】
統合失調症飯森被告の判決について感想を書いたが、二日たっても誰も読んだ形跡がない。
読んだかもしれないが、口を出すことを避けているように覗える。
多くが左翼やリベラル的見識をお持ちの人たちが、精神病問題になると全く無視する態度をとる。
日本の左翼だとか、リベラルがファッション化したり、懐旧的心情に停滞していたり、日本の明治以降の暗部をみようとしないことに、私はかねてから批判的であった。
反権力のたんなる「否定性」の単純な時代はもう過ぎ去ったのだ。
今人間を語るとき、精神病こそが中心的課題なのであって、それほど解体された社会、人間のアトム化、すなわち社会とのディタッチメントが進行した時代はなく、そこには絶えず一定の精神病者を生み出す「装置」が仕込まれてしまっている。
そこから哲学的に近代の組み換えが喫緊の課題だろうと思っている。
そんな中、佐藤幹夫氏の『飢餓陣営』に出会い、感銘をうけ、多くを学ばせていただいた。
昨年末の名古屋高裁の判断は、初めて拘束具による患者の死亡に対して、医療行為の行き過ぎを認定し、患者遺族の勝訴となった。
この画期的判断にも、日本の左翼やリベラルは歯牙にもかけなかった。
外国人の入管虐待死には、マスコミもリベラルも人種差別だと騒ぐが、自国の精神病の拘束具虐待死は毎年10人程度殺されているのにも拘わらず、いったい取り上げた左翼や労組やリベラルがいるのだろうか?
 
【速報】交番襲撃で拳銃奪った男に懲役12年判決 刑事責任能力めぐり2度の精神鑑定 | MBS 関西のニュース
 
MBS.JP
【速報】交番襲撃で拳銃奪った男に懲役12年判決 刑事責任能力めぐり2度の精神鑑定 | MBS 関西のニュース
(Facebookより転載)
 
 
大阪・吹田市の交番を襲撃して警察官を刺して拳銃を奪った男