上昌弘著「菅退陣」に追い込んだ厚労省「医系技官」(忘備録)

忘備録です。

「菅退陣」に追い込んだ厚労省「医系技官」/医療ガバナンス研究所 上昌広

コロナ対策の迷走は、日本社会の劣化を白日の下に晒した。今や指導層のメンタリティは、国家権力に阿る「奴隷」だ。

2021年10月号 DEEP [物言えば唇寒し]
by 上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)

「医系技官の牙城」厚生労働省(東京・霞が関

9月3日、菅義偉首相が退陣を表明した。マスコミは「コロナ禍迷走一年」(読売新聞9月4日)と対応を批判し、その理由として「専門家の懸念や閣僚の進言を無視」し「トップダウンを多用」(いずれも朝日新聞、同日)したことを挙げる。

筆者は、このような論調に違和感を覚える。厚労省でコロナ対応を仕切る医系技官や新型コロナ感染症対策分科会の尾身茂氏などの専門家の対応を見れば、菅総理ならずとも不安になる。なぜ、総理は専門家の声に耳を傾けなかったのか――。この点を十分に論議しなければ、菅首相退陣の真相は見えてこない。

「日本人であることが嫌になった」

尾身茂理事長

私は、菅総理が専門家の声に耳を傾けなかったのは、彼らを信頼していなかったからだと考えている。9月5日のパラリンピック閉会式で映し出されたパリ市民はマスクなしで、大はしゃぎだった。

なぜ、感染者数が約2倍(人口比)、死者数が3.6倍のフランスで制限が緩和され、日本では「ロックダウンみたいなことを法制化してくださいというようなことさえ議論してもらう」(尾身氏、8月5日)」や「(ワクチン接種が進んでも)会食制限・マスク今後も」(朝日新聞9月7日)となるのだろう。

日本の専門家は疑問符だらけだ。最大の問題は科学を軽視することだ。例えば、コロナ流行当初から、PCR検査を抑制し続けている。9月2日現在の人口1千人当たりの検査数は1.0件。主要先進7カ国で最下位だ。トップの英国(12.3件)とは比べものにならない。コロナは感染しても無症状の人が多く、彼らが周囲にうつすのだから、検査数は増やすべきだ。日本だけが、なぜか例外だ。

昨年8月まで、医系技官のトップとして、コロナ対応を仕切った鈴木康裕前医務技監は、「陽性と結果が出たからといって、本当に感染しているかを意味しない」とし、その理由として「死骸が残っていて、それに反応する」(毎日新聞、昨年10月24日)」こともあると説明し、擬陽性の頻度を、医療業界誌のインタビューで1%と仮定している。

これは、いつの時代の議論だろうか。ゲノム医学の進歩は急速だ。1990年に始まったヒトゲノムプロジェクトは、ヒト一人のゲノムを読み切るのに13年を要したが、今や数時間だ。コストは約3千億円から数万円まで低下した。この間、PCR検査などのテクノロジーも急速に進歩した。適切に条件設定すれば、人為的エラー以外に偽陽性はまず生じない。

世界は、最新技術をコロナ対応に適用している。7月、南京でデルタ株の感染者が確認されると、中国政府は約1800万人の住民に対し、1カ月の間に3回PCR検査を実施し、約1200人の感染者を確認した。感染者や接触者を隔離し、7月22日には感染者はゼロとなった。これが最新の科学だ。

中国はゲノム研究の領域で世界をリードする存在だ。深圳に本社をおくBGIグループは、世界最大のゲノム解析集団だ。昨年1月中国がコロナゲノムを解読した際には、同社の科学者が参加しており、流行開始から半年で世界180カ国に3500万セットの検査キットを販売した。日本のような議論はない。

このような状況を知ると、筆者は司馬遼太郎を思い出す。晩年、司馬はノモンハン事件を題材にした小説の執筆を考えていたが、取材を続ければ続けるほど「日本人であることが嫌になった」と断念した。日露戦争の成功体験に酔いしれ、組織や兵器を近代化することなく、無惨な肉弾戦で大敗した。その敗北を隠蔽し、精神論を振りかざし、挙げ句の果てが敗戦だ。私にはコロナ専門家と被って見える。中途半端な知識をひけらかし、検査を抑制した。コロナが蔓延するや、若者の行動や飲食店を槍玉に挙げ、人流抑制を求め、ロックダウンまで言い出した。

JCHO東京新宿メディカルセンター

軍幹部とコロナ専門家に共通するのは無責任だ。例えば、尾身氏は元医系技官で、独立行政法人地域医療機能推進機構(JCHO)の理事長を7年間務めている。JCHOは社会保険病院や厚生年金病院の後継機関だ。社会保険庁の年金不祥事の際に、一旦は民営化が決まったが、最終的に独法となった。公衆衛生危機に対応することが、設置根拠法で義務付けられ、発足時には土地・建物は無償で供与され、854億円の政府拠出金まで提供されている。法人住民税などは免税だ。

では、JCHOは、どの程度の患者を受け入れているのだろう。尾身氏は、「最大限やっている」と説明してきたが、実態は異なる。JCHOは、都内に5つの病院を有し、総病床数は1532床だ。このうちコロナ病床は158床で、全体の10.3%だ。8月6日現在の受け入れは111人でコロナ病床稼働率は70%、総病床の7.2%に過ぎない。組織の設立主旨(公衆衛生危機対応)を考えれば、全病床をコロナ病床に転換してもおかしくない。そうすれば、都内の病床不足の問題は、あらかた解決する。

有価証券運用に余念がない「JCHO」

不甲斐ない田村憲久厚労相

Photo:Jiji Press

JCHOは本来、患者受け入れの中心的役割を果たすべき組織だ。ところが、尾身氏や厚労省は、最初からそのつもりはなかったようだ。5月11日、田村厚労大臣は、JCHOなど4つの組織が協力し、105人の看護師を医療逼迫地域に派遣すると発表した。コロナ患者の診療は手がかかる。JCHOが中心的役割を担うなら、医療従事者の派遣ではなく、自らの施設にコロナ病床を確保しなければならない。都内のJCHOの病院が、アルバイトでもいいから医師や看護師をかき集めているという話は、寡聞にして聞かない。

一方、補助金は受け取った。20年度の総額は324億円で、前年度から194億円増だ。コロナ名目235億円のうち、195億円は収益として計上されている。JCHOの現預金は688億円、前年度から有価証券を130億円買い増し、運用に余念がない。こうした振る舞いは、誰が見てもおかしい。

詰まるところ菅首相は、彼らの暴走を食い止められず、退陣に追い込まれた。なぜだろう。コロナ問題の本質は、まさにこの点にある。一国の総理大臣をしても、厚労省や専門家を制御できないのだ。

筆者は、民主主義の根幹である権力の相互チェックシステムの機能不全が原因と考えている。西側先進国は、立法、司法、行政の三権が分立し、さらにメディアやアカデミアが監視することで、権力の暴走を抑止することを、社会の基本構造にしている。なぜ、このシステムが、医系技官や尾身氏に対して機能しなかったのだろうか。それは、立法府はもとよりメディアとアカデミアの劣化が著しいからだ。これこそが、安倍・菅政権の弊害だ。

まずは立法府、つまり政治家だ。コロナ対策には、医学や公衆衛生に関する専門知識が必要だ。感染症法、検疫法を所管する厚労省の医系技官が中心的な役割を果たすことになる。問題は、彼らが間違えた時だ。彼らと対等に議論し、方向修正できる政治家は限られている。その代表は、09年の新型インフルエンザ流行時に厚労大臣を務めた舛添要一氏だ。東京大学助教授時代の教え子を中心に「チームB」を組織し、医系技官や専門家と議論させ、海外ワクチンの導入など軌道修正に成功した。

かつての自民党には、舛添氏に限らず、厚労行政に通暁した「族議員」が多数いた。今回のコロナ流行で、厚労省に異議を唱えたのも、そのような議員たちだ。その代表が、自民党行革本部長として、国の責務の明確化、指揮命令系統の一本化から、PCR検査の拡充や公的医療機関への重症・中等症患者の選択と集中を訴えた塩崎恭久・元厚労大臣だ。

今年1月の緊急事態宣言発令時には、国公立病院の対応を問題視し、自身のメルマガで「今でも法的に厚労大臣が有事の要求ができる国立国際医療研究センターが重症患者をたった一人しか受けていない状態を放置している事の方が問題だ」と批判した。国公立病院の患者受け入れ状況は公表されておらず、塩崎氏のメルマガに関係者は衝撃を受けた。これは、議会が政府をチェックした一例だが、官邸強化を推し進めてきた安倍・菅政権で、医療行政に通じた国会議員は力を失った。次の総選挙では、塩崎氏をはじめ多くの「族議員」が引退する。

野党の地盤沈下も著しい。09年には、民主党(当時)の長妻昭議員らが社会保険庁の問題を糾弾し、政権交代へと導いた。民主党で医療政策をリードした故仙谷由人氏は、厚労省傘下の研究機関のあり方を問題視し、政権交代後は行政刷新担当大臣として、国立がん研究センターなどの独法化を主導した。現在、問題となっているJCHOは、社会保険庁が所管する組織が経営した病院群を母体としている。ところが、立憲民主党がJCHO問題を、国会で追及したという話は聞かない。旧自治労系の労働組合の存在が影響しているのだろうか。国民の命と健康より支持母体に配慮しているのなら、彼らの支持率が上がらないのも納得がいく。

突破口開いた朝日新聞の松浦記者

政治が機能不全なら、メディアが頑張るしかない。悲しいかな、こちらも問題だらけだ。第二次安倍政権以降、政府はメディア統制を進めてきた。コロナ報道でも、政府への忖度には目に余るものがある。象徴的なケースをご紹介しよう。それは、朝日新聞が9月2日夕刊に掲載した「コロナ病床、国管轄病院は?受け入れ数%、都内1カ所は専用に」という松浦新記者の記事だ。8月19日に朝日新聞デジタルに掲載された記事の転載だ。なぜ、紙面に掲載するまでに、2週間もかかったのか。

注目すべきは、8月20日厚労省閣議後記者会見でのやりとりだ。松浦記者が、JCHOなどの独法に対して法に基づき、患者受け入れを要請する予定はあるかと質問したところ、田村厚労大臣は「法律というのは何の法律ですか。医療法、感染症法ですか」と聞き返した。この回答により、厚労大臣がJCHOの設置根拠法に規定された法的スキームを理解していないことが判明した。厚労官僚が大臣にまともな説明をしていないことがバレてしまった。

厚労省内は騒然となった」(関係者)。急遽JCHOは9月から、傘下の東京城東病院で約50床をコロナ専用病床に転換することを決定するドタバタ劇を演じた。

田村厚労大臣の発言は、厚労省の不作為を「証明」しており、国民に広く伝えるべきだ。ところが、朝日新聞は、この事実を報じなかった。松浦記者が、この件を発表したのは8月23日の東洋経済オンラインだ。9月1日には系列の朝日新聞出版が運営するアエラ・ドットでも、吉崎洋夫記者による「コロナ病床30~50%に空き、尾身茂氏が理事長の公的病院132億円の補助金『ぼったくり』」という記事が掲載され、アクセス数はトップだった。朝日新聞が紙面に掲載したのは、その翌日だ。

コロナ政策の方向転換には、世論の支持が欠かせない。そのためには正確な事実を国民と共有しなければならない。メディアが果たすべき役割は大きい。政府寄りの姿勢が明白な読売新聞とは対照的に、朝日新聞は政府を監視し、日本のリベラルな世論をリードしてきた。私は朝日新聞に大いに期待している。 ところが、この有り様だ。厚労省に忖度し「新型コロナ感染症対策分科会委員」や「厚労省研究班」など、厚労省お抱えの専門家の発言ばかり報ずるのではなく、自ら取材した事実に基づき、当局が報じられたくない真実を、国民の前に示して欲しい。

「コロナ流行」は医系技官に追い風

最後にアカデミズムについても言及したい。菅政権のコロナ政策をリードしている専門家は、尾身氏と岡部信彦・川崎市健康安全研究所長だろう。尾身氏については改めて論ずるまでもない。

岡部氏は国立感染症研究所OBで、菅政権で内閣官房参与に起用された。岡部氏は、流行当初から、PCR抑制を主導してきた。彼が検査拡大に反対した理由は、民間に拡大した場合の精度管理を問題視したからで「行政検査の場合は、熟練した職員がきちんと標準化された試薬と器材を使って、精度管理も定期的に行っています」「精度管理は検査する側が責任を持ってやるべきです。つまり、一定のレベルを保ちながら数をこなして欲しい」などと発言している。

筆者は、この主張を聞いて驚いた。保健所の現場で働く医師から聞いている話と全く異なるからだ。私が編集人を務めるメルマガ「MRIC」には保健所長からも寄稿があり「精度管理自体がかなり怪しかった」「(検査エラーによる)明らかな擬陽性であるにもかかわらず、行政検査の無謬性をたてに絶対にそれを撤回せず、現場を混乱させた」と、現状のありのままを訴えている。保健所や地方衛生研究所は、検査センターではない。このような小規模施設が分担して、大量の検査をするのは、世界標準とはかけ離れている。

中村祐輔・東京大学名誉教授は「(検体採取以外の)工程はすべてロボットで自動化できる。(中略)集約すればいい。いまだに『手作業で大変だ』と言っていたら、世界から笑われる」と指摘する。前述の中国・南京は、こうやって大量のサンプルを短期間にさばいた。中村氏は、昨年、米国メディアが「ノーベル生理学・医学賞候補」と報じたゲノム医学の泰斗だ。岡部氏といずれが説得力があるか、言うまでもないだろう。

なぜ、岡部氏は、こんな発言をするのか。もちろん利権だ。そもそも保健所長は医系技官が座るポスト。岡部氏が所長を務める川崎市健康安全研究所は、地方衛生研究所の一つで、その所長ポストは、感染研幹部の天下り先だ。地衛研の問題は設立基盤が弱いこと。設置の根拠は1997年の厚生事務次官通知にすぎず、自治体に設置義務はない。コロナのような法定感染症は、保健所が積極的疫学調査の実施主体となることが感染症法で規定されている。即ち検査を独占することが、カネとポストに繋がる。岡部氏をはじめとした専門家たちは、クラスター対策や保健所の体制強化、地衛研の法定化を求めてきた。「コロナ流行」は追い風なのだ。

世界で、こんなことをしている国はないし、感染研・保健所の独占体制を維持する限り、いつまで経っても検査数は増えない。この程度のことは、専門家なら誰でもわかる。アカデミアの問題は、ダンマリを決め込んでいることだ。

学術会議問題に象徴されるように、9年間にわたる安倍・菅政権で国家統制が強化されたことが大きく影響しているのだろうが、それではあまりにも情けない。

コロナ対策の迷走は、日本社会の劣化を白日の下に晒した。物言えば唇寒し。今や指導層のメンタリティは、国家権力に阿る「奴隷」だ。これで衰退しないはずはない。いま、問われているのは、日本人の矜持である。

著者プロフィール
上昌広

上昌広(かみまさひろ)

医療ガバナンス研究所理事長

1968年兵庫県生まれ。特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長 東大医学部卒、医師。2016年まで東大医科学研究所特任教授を務める。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論。

(「菅退陣」に追い込んだ厚労省「医系技官」/医療ガバナンス研究所 上昌広:FACTA ONLINE)