27日(土曜日)哲学研究会は、
「美と共同体と東大闘争」(角川文庫)がテーマであった。
院生の日本近代史の研究の一環として資料の読み込みが動機であったようだ。
従って、自分たちが社会的矛盾への変革のコミットメントをする視点ではないから、今一つテーマとして欲しいところを外している。
映画など観たものに言わせれば、全共闘は1人もでていない、まがいものだという批判もある。
しかし、東大が闘争のすべてのように、結局普通の歴史と同様エリート権威筋や出版文化人たちが、エリートの闘争をすべてのように歴史としてのこすのである。そこを理解してみておく必要がある。
また、院生の指摘にあった映画「平成狸合戦ぽんぽこりん」平畑薫監督は、闘争当事者の運動内在化を表現した、総括作品として、多くの当時の学生の共感を呼んだ。
こんな話をしたのでした。
質問、中国文化大革命などの影響はあったのか?
一部東京にはML派というのがいて、毛沢東中国革命、
あるいは根拠地論なんかいう馬鹿がいたが、関西にはほと
んど見かけなかった。
ただファッション的にかぶれたのもいたし、小生も中国
製万年筆をかって一週間で潰れたれど(笑)。
質問、東大生は結局卒業してエリートになったのが多いでしょう?
確かに。しかし資本と賃労働の関係性を免れることはでき
ない。
旧左翼の「転向」概念はない。それぞれの立場で資本の運
動と闘うまみだ。その他は個人の生き方。
質問、当時の大学生は、こんなむつかしい議論をすることができ
たのか?
何言ってるかわかるか?こんな観念的な訳の分らんことを言
っているのは、芥とか小林とかここに来た連中で、全共闘
活動家はもっと違うことを問題にしていた。
文化論、歴史性、時間論、言葉と肉体と精神、かみ合って
ていないし、形而上学=主客論を抜け出ていないように読め
もっとも示唆的ではあったが)。
マルクスなど必要に応じて読んだにすぎない。
抑圧的な「日本村落共同体」から70年以降の「市民社会」
形成に移行する端境期に発生した、精神の改変と社会関係
の組み換えを先取りして要求した、というのが真実だろう
、と解説。