ウクライナが、総動員法で男性を国外退去を禁じた点、
これらをもって
ウクライナ大統領が問題だということは「原理的」には言える。
但しそれは他人事として、特に国家=
暴力装置単
純化論でしかないオールドレフトの言論として当然でてくるなと予見はしていた。
他国から侵略を受けた国家が、死に物狂いで死守し、自分たちの日常性を取り戻そうとするのは、おそらく
ナショナリスト以外でも、庶民感情として当然ではないか。
それをおかしいと言って、大統領が白旗を掲げれば死者は少なく済むし、ロシアが政治を支配することでロシアも果実を手する。
それはその道もあり得るが、
長らく
ソ連の抑圧を経験した結果、国民は民主主義を選択し
ウクライナは建国されたわけで、その努力を水に流せというのは、他人のたわごとだろう。
ウクライナ国民がどうしたいのか、それが全てであって、
終戦時
ソ連に侵略されたことしかない程度の日本人が、とやかくいうことではないと思う。
では、
ウクライナ大統領が、白旗を掲げ、
EU加盟をあきらめて、ロシアに領土を明け渡しとき、人類は再び戦争の侵略性を是認し、勝ったものがちという慣例を追認し続けるというのか?
判断の基準は、
ウクライナ国民がどうしたいのか、誰も国際社会は戦闘支援はしないのだから、
ウクライナ人の進む方向を見守り、被害を受けている庶民が救済されること以外は軽々に他人事として放言しないことだ。
再度言うが、
大国が小国を侵略すること、これをいかなる理由があっても認めない。
ゆえに小国の国民的抵抗は許されるべきである。
戦争の悪は、庶民が被害者となる限り、一国の領土へ正規軍を入れる事は悪であり、悪のメルクマールは庶民の被害という一点である。
他国に正規軍を入れることは悪として、人類史の是認されてきた慣例をシャットアウトすることである。
<追記>
なお、国家は仮想敵と暴力性を内包している。
近代国家は、にもかかわらず、
市民社会の分業と安寧、経済生活のシステム化と飢餓の克服、医療福祉の充実、こうした国民の文化の成熟は
国民国家の成立に拠っていること。その評価の上で、国家を持ちたい国民もいることは認めなければ、大国の属国と抑圧に忍従せよということと変わりはないのだ。