ウクライナ戦争ー感傷ではなくどの水準で視ていくべきか?

ウクライナはよく闘っている。男は闘うが、女は15%が軍に参画している。しかし多くは子供をつれて逃げる。
別れのシーンは、悲嘆に満ちている。
男だけ総動員法で銃をもち、女は逃げる。
安物のジェンダー論者は文句いわないのか?
女も総動員法の対象にせよと、銃を持てと。
やはり総動員法は、どうかと思う。
国家の大義があったとしても、命より重い物か?
属国にされたとしても、貧困と屈辱と忍従の日々がきたとしても、命と比較考量して、
は個人に選択は任されるべきだと思う。
銃を持たない国民が多いなら、多分その国家は価値がないのだろうし、
そうならないように、日ごろの政府の国民の包摂度合いを高めなければならなくなるだろう。
国民が恩恵を感じ、この成員であることが他の国では賄えない、あるいは愛着と誇りをもてる、そのようでなければ、いざとなれば逃げだしてもよい、という状態に置いておくことが支配者側にも国民の側にもいいのではないか。
次に思うのは、
やはりグローバル化の負の側面しか見えなかったが、ロシアの戦争で「世界市民」というべき世論が21Cには形成されるのではないか。
環境問題でも一国ではほとんど解決できないわけで、「世界市民」の論議と合意形成が不可欠だからである。
今回これほど戦争反対の声が世界的に沸き上がったことはなかったのではないか。
要因は、ロシアがソ連に逆戻りしたような、20Cを再現させてくれた点にあるように思う。
この戦争の仕方を、世界の人びとは一致して非難している。
常任理事国がすでに機能していないことでもある。
この枠組みをどう普遍的正義の実現に向けた組織に変革するか、が喫緊の課題だろう。
宗教のおまじないのようになった護憲運動ではなく、
加藤典洋のいう9条を生かすためには、国連軍創出とリンクさせるべきだという提案は、現実味を増したように思う。
内向きの日本人だけが戦争に「巻き込まれない」護符では意味がない。
大国の横暴はあったとしても、小国も文化や福祉で優位に立てる。
しかし軍事力のコントロールは、大国に勝手にさせない、あくまで国連の合意形成された組織によって、いかなる他国への軍事侵攻も認めない、というシステムしか21Cの国家暴力はなくせないのではないか。
そのために、個別国家の軍隊は国連に委託し、個別国家の交戦権は剥奪する。
これを夢物語だと思うか、志向する価値があると思うかはあなたの勝手。
ただ、9条が、もともと二次大戦の勝者5か国で戦争正義を独占し、個別国家の交戦権を剥奪するという立て付けのもとに成立したことを忘れるべきではない。だから「諸国民の公正と信義に信頼して」と前文はのべるのである。
しかしこの立て付けは米ソ冷戦の深刻化で日本国憲法成立の直前に審議委員会が停止分解してしまった。
そしてその後もっとも戦争をよくしたのが常任理事国の米ソだという現実をみると、この常任理事国の勝手を許さない「世界市民」の声が高まれば、この枠組みは変えられる可能性はあるのではないか。
実現可能性の前で沈黙するか、一歩歩みだすか、それはあなたの自由だ。
私は、ウクライナ戦争をどの水準でみていくか、感傷をこえてリアルに視たいと思う。