ウクライナ戦争の難しさーどこから手をつけたらいいのか?

戦争に含まれている粗野な要素を嫌悪するあまり、
戦争そのものの本性を無視しようとするのは無益な、それどころか本末を誤った考えである。
「額に汗して汝のパンを摂れ」という命題が真実であるのと同様に、「闘争において汝の権利=法を見出せ」という命題も真実である。
(イェーリンク『権利のための闘争』)

法学部に学んだ人なら、だれしもよく識る名言である。

入学すると、真っ先に先輩諸氏からことあるごとにこの書物を叩きこまれる。いまでもそうかどうなのか知らないが、何か急におとなになったような、昂揚感を感じたものであった。
ウクライナ戦争へのコメントが溢れているが、ベトナム戦争当時と明らかに世間様の感じ方が違っている。半世紀たてば当然なのだろうが、しかし、それが平和志向言説でありながら、どこか空虚で、私たちが被害者であるウクライナ国民とつながっているという実感を乏しいものにしているように感じてならない。
理由はほぼ分かってきたが、それは語ると微妙で、ポストモダン思想後の状況がからみかなり深い問題を孕んでいる。
なおポストモダン思想は、哲学的にはすでに我々は価値相対主義の論理矛盾を批判しつくしたため、その分野でまともに反論してくるアホはいない。しかしギリシャから続く意匠を変えた相対主義であり、現代哲学そのものの批判となるため、世上に蔓延する「どっちもどっち」論という過ちを批判するのはなかなか骨が折れるのだ。
昨日はPCがトラブって、とうとう電機屋まで持ち込み修復してもらった。4800円も取られたが、もう根気が続かないのでありがたかった。帰りがけに、
文藝春秋』のエマニエル・トッドの『日本核武装の薦め』論稿を買ってきた。
寝掛けにチラット見たが、世界の趨勢をことごとく的中させてきたトツドではあるが、ウクライナ戦争では方法論として一つだけ大きな見落とし、ないし過ちを侵している。だが多くは適確で参考になりそうだ。しかし、この彼の過ちが、おそらく世間の「米Natoが戦争を仕掛けた」という発信源になっている可能性は否定しきれない。トッドは、このミアシャイマー(シカゴ大教授)の因果説に拠っているため、自国政府への批判的言説に力点を置いているミアシャイマーの分析にのったのであろう。つまり国際政治学者という専門家の完全な欠落の代表的見解となっている。トッドはトッドでフランスでは極右ルペンの躍進が示すように、自国ナショナリズム、反Nato権威主義ロシアとの共同路線が過半を越えようとしており、反米気分のフランス学者らしい背景が窺える。
かれは人類統計学?という専門家なので、上掲の名言など知らないのかもしれない。
人類は、矛盾だらけの近代・現代を作ってきたが、しかしこの近代は宗教戦争の無残さのなかから、平和と飢餓克服と自由を求めた人々の死と血の結晶だと言う認識も片方でしておかないと、単なる厭戦、嫌悪、感情的悲嘆から対象を掘り下げないという現実を創り出す。
近代法はそれの権力の正当性をもっとも重視してきた集中表現である。現実の世界関係は、国際法の表現の以上でも以下でもない。
ほら、原発即時撤廃などと感情的にドタバタしたが、即時など無理、科学は科学で克服するしかない、一旦素粒子の解放をした限り、それを廃絶などできないよ、人類はこの危険なものを抱えてトボトボト歩むしかないのだと言った吉本隆明の言葉を想起する。
私は嘆き節を聴きたくはない、トッドのように核武装しろとも言いたくない、かといって護憲論のように一国平和主義も敵からの逃亡論も内向きの「ナショナリズム」として疑問視している。
トッドが指摘しているように、わたしはこの戦争は明かに第二次大戦の秩序を根底から変える非常に危険な水域に入ったとみており、それゆえ必死になっている。
やっと世界史の書物を入手したので、少し一番疎い世界史のなかのスラブ民族史とスターリニズムのお勉強をして、まとめたいと思っている。