ウクライナ戦争の責任論が分裂する理由(わけ)

加藤登紀子と佐藤勝の対談を観ていて、やはりなと思い付きが確信に変わった。
ウクライナ戦争論も各方面からほぼ出そろって、わたしが勃発初期に書いたものよりはるかに確定的経緯や事実が明らかになってきた。
しかし、初期に勇気ある見解を発表した(間違っていてもその時点で発するという態度)人々が、多くがゼレンスキーはアホだという詳細な説明によって、プーチン間接擁護のようなものだった。
特に外交官あがりや鈴木宗男や佐藤勝らが、西側情報注意論を発信していて、どういうことかといぶかった。
わたしなりに、出そろった戦争論は自分の個人的体験やロシア繋がりやロシア趣味の側面から、我田引水的に軸足を西側かロシアにかけている、論より直観的な判断が基礎になっているなという思いだった。
佐藤勝は鈴木宗男と組んで、精力的に西側批判を繰り返してきたが、加藤との対談で、彼の青春期からの経歴を知って、合点がいった。
要するに東欧にいた外交官や孫崎享などのコテコテのウクライナ原因論(米NATO工作論)は素人のわたしにもその偏向が解るものだったが、彼らこそが私的体験を離脱できずに、我田引水ないし牽強付会的な間接的ウクライナ田舎者扱いし小ばかにしているものだった。(とわたしは感じた)。
そういうわたしも似たようなものだともいえるが、深草氏とまったく観点が一致する理由から、多分法的(正義)側面と戦争の歴史と国際秩序を切開することから論じているためだろう。
国家間紛争は、ローマ教会という普遍宗教から絶対王政を経て国民国家が主権者として自立した時から、戦争の正義の判定はできなくなった。つまり超越的権力を喪失した、それが近代国家なのである。その後少ない戦争論が書かれたが現実は次のように進んだ。
近代初期17世紀の自然法による「正義の無差別戦争論」、
18世紀から第一次大戦前までの法実証主義による無差別戦争論
第一次、第二次大戦を経て戦争禁止を基礎とした戦争限定主義、
即ち国連憲章の「自衛戦争」だけを唯一例外とした国際合意である。
国連憲章は、戦争禁止とは書いてない、全て武力であり、その威嚇および行使を禁じた。しかも「自衛戦争」は和平任務を負っている常任安保理の和平への行動を開始されるまで、という極めて限定的武力行使容認なのである。
現実の世界は、とても厳密に順守されておらず、むしろ大国が小国を国連違反で侵略してきた。
それが現実だからといって、では再び無差別戦争論に戻することでいいのか?
わたしの思考はここから始まっている。
だからカントなのだ。
カントは、常備軍廃止、交戦権廃止、諸国家の合意による「統制的理念」(永続平和追及)によって駆動するしかないと述べている。
この戦争は、ロシア擁護派は語ろうとしないが、2014年のロシアによるクリミア半島軍事占領から始まっているのである。
ドンバスへはロシア軍参謀本部出身のロシアネオナチの率いる義勇軍を攪乱内戦を起こし、紛争化した。当然ウクライナにも当時はネオナチが少数いたが、開戦時点では国軍へ組み込まれ消失している。だからそれをもってネオナチから救済するという理由にはならない。国連憲章からすればそこにロシアの正当性はないのである。
わたしたちは、この戦争の後の世界の平和秩序をどう組み立てるか、小国の犠牲の上にまた大国の横暴を許していくのか。
こうした国連憲章に基づく限定的戦争論は、絶対平和主義からの批判は当然でてくるが、絶対平和主義を実効ならしめるべきシステムを抜きに唱えるだけなら、ただの念仏であり無差別戦争論への回帰とそれへの拝跪にしかならないだろう。
なお研究者のなかで、私は小泉悠氏をもっとも信頼している。
これも期せずして初期からわたしの視点を共有していたからである。彼は次のように述べている
「この戦争は「どっちもどっちも」と片づけられるものではない。本書で描いてきたようにゼレンスキーは決して完全無欠のリーダーではないし、バイデン政権にも(今の眼でみれば)ロシアを止めるためにあらゆる手を尽くしたとは言えない。
しかし、それでもこの戦争の第一義的な責任はロシアにある。(略)
一方的な暴力の行使に及んだ側であることには変わりはない。開戦後に引き起こされた多くの虐殺、拷問、性的暴行などについては述べるまでもないだろう。
この点を明確に踏まえることなしに、ただ戦闘が停止されればそれで『解決』になるという態度は否定されなければにらない。」
これはらは道義的問題ばかりか、日本が戦争に巻き込まれたとき、そのまま跳ね返ってくる問題だからだと述べる。
またわたしはアッと声をあげたのはこのくだりだ。
小泉はあとがきにこう記した。
国家や軍隊や指導部を多く登場させて書いてマクロな観点から扱っているが、軍事としては宿命のようなものだと。
しかし、「そこにはミクロな現実がー多くは悲劇的な現実が存在している。それゆえに、本書の最後には、小さないくつもの名前に言及しておきたいと考えたしだいである。
本書は、読み上げきれない無数の小さな名前たちに捧げられている。」(「ウクライナ戦争論ちくま新書)
わたしが当初から専門家の論考に、大衆の座標軸ないし動向をくりこんだものがなくて物足りないと述べたが、小泉は戦争論がなぜ必要か、どこに向かって書くべきかを理解している人だと嬉しくなった。
奥さんがロシア人であるにも関わらずぶれずに、極めて冷静に客観的に書き下ろしていることに敬意を表したい。