深圳の日本人児童殺害テロを悼むーそしてエリートのナショナリズム扇動を警戒する❣

中国男の日本児童殺害事件は痛ましい。
母親が付き添っていながら、目の前で刺された。
反日政策の「成果」ということだろう。
これで反中の声が沸き上がり、平民右翼が報復を叫ぶのは仕方がない。
しかし、「反〇〇」なんてなんてナショナリズムを公権力が言い出して、栄えた国はないのが世界のあらゆる国家・民族の歴史だ。日本がその見本だ。いまだにアメリカの程度のよい植民地。
 クルド人排斥の決議が川口市議会でなされてから、川口にヘイトが集まり、デマ動画を流し始めたことが知られている。
関東大震災朝鮮人虐殺も正力公権力がデマを流して惨劇は発生した。
日本人は、中国共産党反日ナショナリズムが間違っているか分かるだろう。
であるから、日本人はこれを他山の石とすべきだろう。
小競り合いや、小便したりクソしたり、酔っぱらって騒ぎを起こそうが、人を殺そうが、それは国民性より人間の性だからだ。
エリートのナルシシズムに付き合ってナショナリズムに巻き込まれると、結局庶民がわりを食う。
どこのエリートも付和雷同の善良な国民も、「ヴィシー症候群」にかかっているから、国民は抑制しなければ、この少年の悲劇は繰り返される。
今や、世界は「過去の闘い」の様相を呈している。
ジャットは、「ある程度の放念、さらには忘却」が、戦後ヨーロッパの平和のために必要だったとのべている。ヨーロッパの統合という新たな神話を作れた。今揺らいではいるが、その枠内を飛び出すことはない。
68年革命以降の左翼の戦前の告発は、大事な経過ではあったが、半世紀たち、世界の分断の先鞭をつけた。
だがこの混乱を収める風呂敷を持たなかった。
「ヴィシー症候群」の告発は当時は必要性があり、必然の勃興であった。
そして今、私たちにはこの「ヴィーシー症候群」と「過去の闘い」をどう収拾つけるのか、私たちの問題であって、決して他人のせいにすべきではない。
世界的アイデンティティ政治の花盛り。国家と国内の分断の深刻な対立。
グローバル化アイデンティティ政治の果てのこの事件の教訓は、とどのつまり庶民が割をくうということだ。
「中国がーー」なんてわめいている前に、
企業はとっとと中国から粛々と撤退し、社員を守れ。
国民は、中国を工場とし安い商品で中国人より良い生活をしようとしないことだ。
(Facebookより転載、推敲のない書きなぐりなのでご容赦、後日精査します)