「桐島です」は佳かった(十三第七芸術劇場)。
高橋伴明監督は、やはりいい。
全編に詩情をたたえ、言葉ではなく映画の最も得意とする映像で語らせる。
当たり前のようで、この練度が高度であるとは限らないのが映画作品なのだ。
いわゆるアジテーション映画、エベント映画になっているものが多い。
桐島のナイーブさは、今はもう消失してしまったのか、額面通り高橋監督の意を受取ればそうなるだろう。
だが私には、BGM河島英五の「時代遅れ」が反語的に聞こえてしまう。
青春期だけが持てるもの、治安国家の捕縛を逃れ、桐島が産毛のようなナイーブさを抱きしめ続けた結果だ。誰にも俺の正義を渡してたまるか。
市民社会を逃亡者として生きるとはそういうことなのだ。
出世も、家庭の安定も、恋愛も、故郷のぬくもりも、全て捨てても、桐島は自己の正義を守り続けた。
刑罰から逃亡するという意味もあったかもしれない。
しかし、刑罰とは関係なく、産毛のナイーブさをひとり静かに抱きしめながら、正義の憤怒にかられ、身を持ち崩しながら桐島のように老いを迎えた者たちが多くいたことも私は知っている。
彼らの多くは、「友達を大事にし」、「そっと酒場の隅で」、
「無名なまま」酔いつぶれて寝てしまう。
そして、逝ってしまうのである。